米国留学での経験

〜ラフィエット・カレッジで〜

 

1988年の夏から2年間を過ごしたラフィエット・カレッジ(Lafayette College)にはとても深い思い入れがある。私が米国に長年住むことになったきっかけはやはりここでの生活だ。ラフィエット・カレッジはペンシルバニア州のフィラデルフィアから北に約100キロ、ニューヨークのマンハッタンからは西に約150キロのところに位置するイーストン市にある。郊外の閑静な地域でデラウエア川をはさんでニュージャージー州と隣接する。ラフィエット・カレッジはカレッジヒルと呼ばれる小高い丘の上にあって、そのあたりは歴史保存地区に認定されており、築100年を超えるような昔のペンシルバニアらしい古い住宅が立ち並ぶ。

 

ラフィエット・カレッジは大学院のない私立の4年制大学で、いわゆるリベラル・アーツ・カレッジだ。規模は小さく学生数2千人程度。ヨーロッパ的で白人率が高く、アジア系、アフリカ系、ヒスパニック系の学生はとても少ない。中世のお城や貴族の館のような外観の建物が多く、新しいビルも周囲に調和するように古めかしいデザインになっている。キャンパスは芝生や樹木がとても美しい。大学はプラント・ケアのために専属の庭師を何人か雇っているので年中手入れが行き届いている。大学のキャンパスの美しさは入学希望の生徒や親たちにアピールするための重要なポイントの一つなので、特に郊外にある私立大学のキャンパスは美しい所が多い。

 

私は日本にいた頃は社会学研究者のたまごだった。大学院の博士課程の最終学年を終え、研究職にありつけるあてもなく、このまま社会学を続けていていいのだろうか、全く別の道に進むことも含めてどうしたものかと悩んでいた。とにかく昔からの夢だった米国留学をしたいと思い、日本語のTA(ティーチング・アシスタント)をするということで、授業は何を取っても無料、寮費・食費も無料という条件で、2年間ラフィエット・カレッジにリサーチ・アソシエイトとして行くことになった。

 

キャンパスにたどりついた初日は新任のファカルティー(大学教員)たちと一緒にキャンパスツアーに参加。私と同じように外国から来たフランス語のTA、スペイン語のTAも一緒だ。ツアーガイドは学生で、器用に後ろ向きに歩きながら建物や施設の説明をし、寮の中も見せてくれた。普通の寮の学生は大学のカフェテリアで3食食べる。普通の寮のほかに、男子学生にはフラターニティー・ハウス、女子学生にはソロリティー・ハウスというものがある。それぞれのハウスはそのハウス専用の食堂があり、同じ釜の飯を食べ、一つ屋根の下で生活することで連帯感を高め、絆を強める。フラターニティー・ブラザーとかソロリティー・シスターとか互いを呼んで、卒業後も公私にわたり親睦をはかる。フラターニティー、ソロリティーは学生の社交団体で各大学に存在し、全国組織として横のつながりもある大きな会員制の組織だ。

 

大学で私は日本語のTAをするかたわら自由に研究活動をし、何の授業を取っても良かったので最初の学期はとりあえず社会学のクラスを取った。しかし私はすでに大学院博士課程の最後まで行っていたので学部レベルの社会学の授業は面白くなかった。それでいっそのこと全然違うものを勉強しようと思った。もし社会学の研究者になるのをやめて別の道に進むなら何か専門職でないと職にありつくのは難しいだろうなと思っていた。

 

アカウンティング(会計学)なら留学生が米国で職を得るのに有利だという評判をきき、アカウンティングのクラスを取ることにした。留学生が米国で就職するにあたってネックとなるのは米国で就労可能なビザを取得することで、それは就職先の企業がスポンサーになってくれないと取得できない。大規模な監査法人や会計事務所は外国人留学生の採用に積極的で就労ビザのスポンサーになってくれる可能性がほかの業種より高かった。

 

日本にいたころ複式簿記の借方・貸方なんて全くやったこともなく、何の基礎知識もないまま、米国の大学でアカウンティングの基礎クラスから始めた。分厚いテキストがあって、授業はけっこう忙しい。毎回宿題があり、小テストが時々あって、中間・期末の試験がある。私はまだ米国に来たばかりで英語に慣れていなかったし、聞いたこともない専門用語がたくさん出てくるので、テキストを読むのに人より時間がかかる。予習をしないと授業で先生にあてられても急には答えられないのでいつもしっかり予習をした。アカウンティングのクラスは、しいて言うなら高校の数学の授業のような感じで、計算問題を解くペーパーテストでことが済んだ。英語をたくさんその場で書くような記述式の試験はないし、何冊も本を読んでレポートを書いたりすることもないので、英語にハンディのある外国人には比較的やりやすい科目だと思う。

 

アカウンティングの中級・上級とすすんで、ほかにも租税法、監査論、公会計、会計のITシステムなどの授業をひととおり取った。もともと私は全くの文系人間で理数系のセンスはないので勉強はけっこうたいへんだった。だけれどもアカウンティングでは+−×÷の四則演算程度しかでてこないのでなんとかなった。会計や監査に向いているのは理系から文系に転身した人でパズルを解くのが得意な人だと思う。

 

授業は驚くほどプラクティカルで、全く何の基礎知識もなかった私が上級を終える頃には企業会計の財務諸表を読んで企業買収時の会計処理の方法までできるようになっていた。せっかくここまで勉強したのだから是非米国で働いてみたいと思った。米国の監査法人に就職するにはアカウンティングの成績が良くないと採用されないと噂できいていたので、どの授業でもAがとれるようにがんばった。

 

80年代終わりごろは円高が進み、バブル経済期で、日本企業がどんどん米国進出していた。ラフィエット・カレッジの就職指導室に置いてあった就職情報誌で、KPMGが日本語と英語ができて会計学専攻の学生を募集していることを知り、2年目の10月にレジュメ(履歴書)をKPMGニューヨーク事務所に送った。レジュメの書き方の指導は大学の就職指導室がしてくれた。米国の就職指導室はそういう就職活動の基本の指導や、複数の企業を招いて企業合同面接イベントを学内で行ったりすることはあるが、それ以上のことはしない。

 

KPMGニューヨーク事務所の日本企業部の採用担当のパートナー(共同経営者の一人)が私に興味をもってくれて、すぐニューヨークに面接に行った。面接してくれたのはまずその日本人のパートナー、次に米国人のマネジャー、その次に一緒に働くことになるかもしれない数年上の先輩に順繰りに会って話をした。米国では人材の採用の権限は現場にあり、人事部は事務的なことをするだけで、採用・解雇の権限はもたない。現場でOKがでればそれで採用が決まる。重役面接などはない。米国の就職活動でオファー(採用通知)が出始める時期は最終学年の秋で、私は運よく採用通知を11月に受け取ることができた。

 

88年から2年間のラフィエット・カレッジでの生活を終え、90年7月にニューヨークのマンハッタンに引っ越して、KPMGの監査部門に勤務し始めたのは9月だった。ちなみにその後、私は監査部門を2年経験したのち税務部門に移った。私は頭が全くの文系なので監査よりは税務に向いていた。米国では税務専門職は日本の税理士のように経理仕事をすることはなく、純粋な税務で、税法との戦いでリーガルマインドが必要だ。KPMGで鍛えられ、その後独立し、結果的には今もニューヨークに住んでいる。

 

米国に来て日本に居たころとは全く違う分野からの転身だったが、思い切って舵をきって良かったと思う。社会学研究から離れたのはちょっともったいなかったかなという気もするが、あのまま日本に居てもきっとうじうじした生活になっていただろうと思う。日本で博士課程を修了しても就職できないオーバードクターが社会問題化しているが、別の道へ進むという選択肢も念頭に入れて大学院生は備えておくべきだと思う。そもそも博士課程に行ったからといってだれもが大学教員や研究職にありつけるわけではないことは最初からわかっていることだ。芸術家を目指す人がみな芸術で食っていけるわけではないのと似ているかもしれない。

 

それに日本の特殊事情もあって大学教員のポジションは競争原理が必ずしも機能するとは限らない場合もある。近年は少し変わってきたが、いったん常勤の大学教員になれば終身雇用であまりにもお粗末な研究しかしていない古い人がのうのうと大学教員をしている現実がたまにあるのは若い優秀な研究者の閉塞感を高める。底辺校の大学院を出た人がそのままその大学の教員になることもあれば、トップレベルの大学院に入って高度なレベルの厳しい競争にさらされ立派な研究業績がたくさんある人でもその専門分野で大学の研究職に空きポジションがなくて底辺校の大学教員になることもできない人もいる。かたやマスコミの著名人や元官僚や民間の専門職の人が全くアカデミックな業績がなくても大学の客寄せ的に大学教員に採用されることもある。もともと研究ばかりが大学の役割ではない。

 

結局自分の人生は自己責任だ。現代は一般的に大学生の就職活動が厳しいのは事実だが、20代の前半で就職がうまくいかないからといって悲観することはない。社会の流れにそって自分を変革させればそのうちなんとかなる。大事なのは変化を恐れず前へ一歩進むことだと思う。