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「アトランタ・オリンピック」

私はオリンピックが大好きだ。1996年の夏、せっかく米国にいるのだから是非オリンピックを生で見てみたいと思い、アトランタ・オリンピックの競技観戦チケット(重量挙げ、柔道、体操)を事前に購入していた。競技によってチケットの値段は違うが、一般的にはチケットは15ドルから70ドルくらいでそれほど高くはないが、米国で人気の体操や水泳のチケットは高くて100ドル近くして良い席は250ドルくらいだ。開会式のチケットは入手困難で買えなかったが、なんとオリンピックが始まる2週間前に開催スポンサー等が保有していた席のチケットが特別に放出されることになった。手数料を含め1席650ドルと高額だったので一瞬迷ったが、こんなことが起こるなんてきっとこれは神様が是非開会式を見なさいと私に言っているに違いないと感じて、即購入し、幸運にも開会式のチケットをゲット。

オリンピックは一人で見に行った。米国にはオリンピックに特別な思い入れのあるスポーツ観戦ファンはそれほど多くはないので、一緒に行きたいという人を見つけるのがめんどうくさかったし、一緒に行くかどうかわからない人の分までチケットを購入するのはお金がかかって嫌だったので、一人で行くことにしていた。私は開会式の前日にアトランタに到着。売れ残っているチケットの中からレスリングと野球のチケットを買い足した。オリンピック会場にはいろんな記念グッズの店がでていて、Tシャツやキャップやバッジをいくつか買ってオリンピック気分満点でルンルンだった。

アトランタのホテルはどこも満室で事前に手配することが出来ず、KPMGアトランタオフィスの知り合いの日本人女性の家に泊めてもらった。NYオフィスとアトランタオフィスで何度か仕事上の電話で話したことはあるが、一度も会ったことがない人だった。私が、ホテルが取れなくて困っているという話をすると親切にも家へどうぞと言ってくれたのだ。本当にありがたかった。

開会式が行われるスタジアムに続々と人が集まる。私の席は正面側の1階席でなかなかいい席だった。だけどさすがに開会式を一人で見に来ている客というのはまわりにはいなくて私くらいのものかぁと思った。開会式が始まる前に観客参加型のアトラクションの説明があり、各箇所にいるリーダーの合図でペンライトを振るとか、色のついたチーフをもって立ち上がるとかの練習があった。そして午後7時、ファンファーレで開会式が始まった。

開会式はやはり夜がいい。レーザー光線などのライティングや花火が夜空にはえて演出がすばらしい。ギリシャ彫刻のような肉体美の男性が大きな影絵でパフォーマンスをするのが印象的だった。そして選手入場。日本選手団が登場するときは、私は一人で立ち上がって日の丸で応援。開会式のクライマックス、聖火を最後に受け取るために現れたのはモハメド・アリ。「おお!」と観客がどよめく。パーキンソン病で震える手でしっかりトーチを持ち、聖火台がみごとに点火された。派手な花火があちこちからあがってフィナーレ。やはり生のオリンピック開会式はいいものだ。

 

翌日から競技が始まり、まず重量挙げを見た。私は競技の中でもっとも楽しみにしていたのはこの重量挙げだ。重量挙げを見るのが好きという女子はめったにいないだろう。男子だってそんなにはいないかもしれない。だけど重量挙げこそオリンピックにふさわしい競技の一つと思う。何といっても世界一の力持ちを決める競技なのだから。ギリシャの太古の昔からあった伝統的競技だし、生の肉体の極限を競い合う醍醐味がある。

選手たちはこの重いバーベルを挙げるために今まで長い間どんなにつらい鍛錬に耐えてきたのだろう。それもバーベルを挙げているのはほんの2秒程度だ。プラットフォームに立って、かまえて、挙げるか挙げないか、その一瞬にかけるアスリートの気迫。挙がった時の喜び、挙がらなくて失敗した時のくやしさ。ライバルたちの出来を見て次は何キロに挑戦するかの駆け引き。見ているとこちらが感情移入してどきどきだ。日本の池畑大選手は59キロ級でスナッチ3回とジャーク3回の試技のすべてを見事に成功させ堂々の4位。すばらしいできだった。

体操でゲットしたチケットは実は本番のチケットではなく本番数日前に行われる本番さながらの練習チケットだった。練習が売り物のチケットになっていたのは体操だけだ。体操競技を生で見るのは初めて。練習とはいえ世界一流の選手たちが本番さながらにやるのが間近で見られてとてもよかった。この年のオリンピックでは当時19歳の塚原直也選手が注目を集めていた。本番で米国は女子団体の最後の跳馬で足を負傷したケリー・ストラグ選手が見事にぴたっと着地し奇跡を起こし、米国チームに金メダルをもたらせた。この時の少女たち7人は、のちにマグニフィセント・セブンと呼ばれた。

柔道会場ではなんとNYで元上司だった女性に声をかけられた。彼女は夫と一緒にフィラデルフィアから観戦に来ていた。こんなところで偶然会うとは奇遇だ。柔道ではドイツの女子選手が印象的だった。3位決定戦で勝って銅メダルを決め、喜び勇んで私の席の近くにいたドイツ応援団にかけよって抱き合ってわあわあ泣いていた。

野球は球場の席数が多いのでチケットが手に入りやすく値段も手ごろ。日本チームの選手のユニフォームには日の丸がついていて、当たり前なのだけどこれはオリンピックの試合なのだなあと思う。日本が勝って次に駒を進めた。

レスリングでは私が買ったチケットの時間帯ではたまたま日本の選手が出ていなかったが、やはりオリンピックの空気は違う。選手たちやコーチたちのピンと張りつめた絶体絶命の緊張感があって、その同じ空間に自分がいることが貴重な体験だった。

アトランタに4泊してNYに戻った。ちょっと前まで生で見ていたオリンピックをテレビ画面で見るのはなんだか不思議な感覚がした。その後オリンピック広場で爆弾事件が起こり、驚いた。何度か広場の前を通って見なれた風景をテレビは映し出していた。ゴミ箱に仕掛けられたものでたいしたことにならなくてよかった。容疑者は数日後にすぐ逮捕されたがFBIの誤認逮捕でのちに大きな問題になった。

オリンピックは四年に一度のアスリートの夢のイベント。選手たちは長い間ものすごくたいへんな努力を積み重ねてきたはずだ。報われる人も報われない人もいる。選手たちの真剣なまなざし。この日この時に最高のパフォーマンスができて輝く顔。日頃の力を出せなくて悔しがる姿。この日この時の、その一瞬にかけるアスリートの姿を見るのがたまらない魅力だ。2020年のオリンピックは東京で是非見たいものだ。