化石人間のつぶやき

山本浩一

 

 私は、俗にいう化石人間である。車の運転も出来なければパソコンのオペレーションも出来ない。だから私自身の移動手段は常に列車であり乗合バスである。勿論、手紙は自筆である。時折友人から生活に不自由を感じないか問われることがあるが、今もって感じたことはないと答えている。

 独りで写真撮影に出かける時は、目的地の最寄駅まで列車に乗り、そこから目的地まで歩く。体力に余る距離を稼がねばならない時はタクシーを頼むことにしている。携帯電話は持たないことにしているので、その日は誰憚ることもなく至福の時間を過せる。社会が目まぐるしく移り変る中で、自己を見失わない為にも、拘りを持った生き方があってもよいではないかと思っている。

 列車を利用すると時代を映した乗客の生活風景を見ることができる。数年前にJRは嫌煙者の社会的な喫煙反対運動を追風に構内、列車内の全面禁煙に踏み切った。それまで容認していた車外における喫煙も禁じてしまったのである。それ以来、列車の擦れ違いから待ち合わせ駅となるプラットホームでの乗客の喫煙風景はパッタリ消えた。時間を気にしながらそそくさと煙草を吸っている窓越しの光景は格好の被写体でもあったので、些か寂しさを感じたことであった。

 私は、もともと煙草を吸わないので規制措置による影響は無かったが、当時、喫煙についてはこんな思いを持っていた。煙草の体に与えるリスクを考えると吸わない方が良いに決っている。しかし、嗜好品として社会に定着している以上喫煙者の権利を認め、JRは規制した後の対策を考えて然るべきであった。煙草に限らずアルコールや糖分、塩分にしても取り過ぎは毒である。あとは良くも悪くもその人の考え次第であって、結局は生き方に帰する問題ではないかと。

 ちょうどその頃、長年の喫煙で健康を害したとする東京に住む肺がん患者らが、「有害性を認識しながら適切な喫煙対策を怠った」として、日本たばこ産業と国を相手どり、損害賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁は「喫煙者は喫煙するかしないか自由に選択することができ、煙草が嗜好品として社会に定着していることを考えると、製造、販売自体が違法とまでは言えない」とし、原告の訴えを退けた。この判決が反響を呼び、選択の自由と自己責任論が巷間で甲論乙駁されたことは言を俟たない。

 もう一つ気になる風景がある。それはスマートフォンの爆発的な普及によって、車内に会話のない社会が顕在化したことである。乗車した高校生の殆どはスマホに夢中で、そこには会話は無い。車輪の音だけが響き、目を閉じればまるでガラ空きの列車に乗っているようだ。生徒たちの人間関係はどうなっているだろうか老婆心ながら些か心配になる。列車内の風景に話題は尽きない。

(写友会うしお)