海外こぼれ話 155             

 

なぜドイツに

興味を持ったか

 海外こぼれ話を書き始めてもう13年目になります。振り返ってみますとあっという間で155回を迎えましたが、実に時は早く過ぎるものです。この前還暦を迎えました。連載が始まった2001年1月頃に、計羽先生より毎月海外に訪問しているので、何か面白いことを書いて見ないかと問いかけられました。毎月欧州に出張していること自体が恐らく鳥取県では私一人で、欧州の紹介(私の失敗談、料理、習慣など)も良い機会と思い連載を引き受けることにしました。今回は155回を超えたこともあり良い機会と思い、なぜドイツに興味を持ったか、そしてなぜコンサルタントになったかをご紹介したいと思います。それが分かりますと、これからの海外こぼれ話の話題に興味が深くなるかと思います。

 ドイツを意識し始めたのは、米子高専の2年生の頃だった。今からだと、44年前になり本当に大昔のことだ。中学時代には国語や英語の語学が苦手で、それを避けて勉学が出来るのにちょうどよく、工学系の学校(工業高等専門学校)ができたので受験した。運は一瞬、縁は一生といわれるが、本当に運よく受かったものだ。しかし語学がないと思って実際に学校に入学したら、一年から英語があった。それも5年間もあり、さらにドイツ語が2年から3年間もあって、非常に苦痛のように感じられた。

英語の冠詞は、「the」と「a」だけだが、ドイツ語は思い出したくもない冠詞の「das」があった。これが男性名詞、女性名詞、中性名詞、さらには、名詞の格(が、の、に、を)に相当するものが4つもあり、それぞれに変化をしていくので、相当混乱と拒絶反応が出た。逆に言えばドイツ語は非常に厳格であることを示していたことが後になってわかった。ドイツ語の勉強をせざるを得ない状況から、ドイツの国民性を知る機会があり興味を持ち始めた。

二回の世界大戦を敗戦で迎えても、その後の驚異的な工業の復興の姿を見て、ドイツやドイツ人のバイタリティを感じていた。そのことからドイツ人の国民性は、どうなっているのかと調べたくなり、数少ないドイツに関する資料を漁っていた。そうしている内に、1977年に篠田雄次郎著の「日本人とドイツ人」という本を手にした。サブタイトルには、猫背文化と胸を張る文化とあり、なるほどそうかと引き込まれていった。

その本には、ドイツ人のお嫁さんはジャガイモ料理を200種も覚えてからお嫁に行く、今日使ったものは必ずその日の内にすべて元の位置に戻すなどと、ドイツ人の生活の様子も書かれていた。(現代の女性はほとんど料理をしないみたい)その頃に高専の同級生から、ドイツからの旅行中の絵葉書をもらった。それで急にドイツに興味を覚え、本に書いてあることが本当かいなぁと、翌年にドイツの一人旅を計画して決行した。オムロン倉吉に入社5年後の25歳の時だった。やはり最初の出会いというか、初めての海外旅行がドイツになったことは運命的だったと思える。当時ドイツといえば、高級車が非常に有名で、ベンツ=金持ちのステータスにもなっていた。その産業を支える設備や機械が、非常に精巧でしかも故障しにくいことが支えていた。そしてその技術力は日本より桁違いと思っていたので、技術系にいた私は当然ドイツに憧れを持った。

一人ですべての渡航の手配

当時は若く相当好奇心もあり、一人旅の計画も「地球の歩き方」と言うガイドブックを参考に、飛行機のチケットの手配、欧州の鉄道がパス券を使って乗り放題のチケットの手配などを一人でやった。失敗や手直しなどあるが、この方が旅の楽しみが増えるものだ。ただしホテルは現地調達した。またオムロンの海外支店に知人がいたので、オランダのアムステルダムに2日間訪問する手配もした。35年前の当時は、FAXの前のテレックスという文字の羅列した通信手段を使ったものだった。

飛行機は安いということで、色々調べた結果シンガポール航空を選択した。当時はエコノミーでも往復20万円だったが、現在は格安になって10万円以下で可能だ。3週間の合計の旅行費用は、50万円掛かったと旅行日記に書いていた。当時はソ連の上空が飛べない時代だったので、南回りかアメリカのアラスカ経由での移動になっていた。このため非常に時間が掛かり、南回りだとシンガポール、パリを経由してフランクフルトには、合計で28時間を要した。現在はロシア上空を通過するので、飛行時間は11〜12時間だ。

シンガポール空港では飛行機の乗り換え(トランジット)があることがわからず、なぜ途中で降ろされるか不思議だった。係員に大声で「フランクフルトに行きたい!」と叫んでいたら、同機で一緒だった米国人が次の乗り継ぎのゲートまで連れて行ってくれて事なきを得た。一つ間違うとその時点で、旅は終わっていたかもしれなかったが、思い出すとぞっとする。問題があると日本語でもなんでも大きな声を上げると、助けてくれる人がいるものだ。海外は自分から求めないと何もしてくれないが、知っていると対応ができる。

トラブルでも

非常に親身に対応してくれた

パリ経由でフランクフルト空港に着いて、列車で中央駅に着くとドイツの匂いがしてきた。ビールとソーセージの焼いた匂いだ。当時ビールが1ドイツマルク(120円)で飲めた。コーラやジュースはその1.5倍の値段だったから、ビールの方が安いということで、昼から水替わりに飲むことにした。会話帳を片手に、道を訊ねたり料理を頼んだりしたが、出会った皆さんが皆非常に親切だったことが、初めての海外旅行でこのドイツに親近感を覚えた。

当時のドイツ鉄道はほとんど遅れがなく時間通りに運転し、しかも山がなくほとんど平らなドイツの田園風景を楽しみながら移動した。見知らぬ人が声をかけてくることが多く、そのたびに会話帳を取り出して、さらにジェスチャーも交えコミュニケーションを図ったが楽しかった。しかしホテルのレストランでビールを飲みながらのコミュニケーションは、ジェスチャーと会話帳のお蔭で何時間も話ができた。ただし内容が伝わったかどうかは疑問だが、お互いが楽しかったことは確かだった。

途中3週間のパス券をなくした時には、その対応にドイツ語の辞書片手に、車掌と1時間近く会話をした。この時にも献身的に説明をしてくれたが、つばが飛ぶのが大変だった。また南ドイツのノイシュバインシュタイン城に行く時に、列車を乗り換えることが分からなく、反対方向のボーデン湖のあるリンダウまで行ってしまったこと。その時は途中切符の検札に来た車掌が、何やら途中駅のフィッセンで何やら私に指示をしていたが、まったく理解できなくで、その列車の終着駅まで来てしまった。その時に乗り換えすることが分かったが、あとの祭りだった。ガックリしたが、リンダウの街を4時間くらいゆっくりと見物した。家の壁に多くの絵が描かれている非常に綺麗な街で、すぐにスイスと国境を隔てているボーデン湖の眺めも良かった。

次の目的先を変更して列車に乗ったら、行く時に出会った車掌に出会った。彼は色々と訊ねて英語の出来る乗客を連れてきて、説明をしてくれた。ノイシュバインシュタイン城に行くには、途中の駅で乗り換えするという。この親切さは感動を覚えたほどだ。コンサルをしてからは、近くに訪問する工場がいくつかできて何度も訪れる街になっていた。その後この城には、家内と一緒に25年後に訪れることができた。トラブルの連続の旅であったが、そのたびにドイツ人の親切さに非常に引かれたことは確かだ。この一人旅がきっかけとなり、ドイツが非常に好きになった。

ビール、ソーセージ

そしてワイン

ビールの種類が非常に多くあり、しかも日本のビールは違い、白濁したものや黒いもの、酵母入りなど実に様々で味も楽しめた。これらのビールを最近は大山Gビールでも生産されている。それに合うのが、やはりソーセージだ。これが病み付きになって、知人のソーセージ工房をお借りして、20s単位で一から加工していた時期があった。数人集めて自家製のソーセージ作りも何度もやり、その場で焼いてビール(日本製)で楽しんだ。塩、砂糖、香辛料のみで防腐剤など混ざりものが一切なく、しかも素材は地元のブタの肩ロースのみで作るものだ。自画自賛ではないが、それは非常に美味いもので、あちこちにファンができたほどだ。

初めてのドイツ旅行に、ロマンチック街道も取り入れた。その起点が南ドイツのヴィルツブルグで、その街には白ワインの非常に美味しいワインがあるので、是非飲んでみてと、オランダの知人から教えてもらった。銘柄は、「ルンプ(ルンペン=乞食)」というもので、その由来は非常に美味しいので、ついに身を滅ぼしてルンペンになってしまったという。ボトルのラベルには、ホホを真っ赤に染めたルンペンが描かれていのですぐわかるという。

街に着いて、駅の近くにこの近辺で一番安いというホテルを探した。ホテルにはドイツ語しかできないオバちゃんだけで、交渉が行き詰まっていた。するとホテルのレストランにワインを飲んでいる30代の男性が助け舟を出してくれ、ようやく泊まる手はずが付いた。そのお礼にと日本円のコインを、1円、5円、10円、50円、100円、500円をセットで携帯していたものをプレゼントした。偶然か必然か、たまたまその人はコインの収集家であった。しかも日本円も持っており、セットになったものはなかったということで非常に喜んでくれた。彼から日本のコインに質問があるという。昭和三十年、昭和三十二年という刻印があるが、これは何かというものだった。

ドイツのコインは、このような製造年の刻印はなく、不思議に思っていたようだ。その経緯と西暦の対比表をその場で作成して手渡すと、「お礼に、お前にワインをおごってやる」と近所のワイン酒場に連れて行ってくれた。そこには昼過ぎから、老婆の集会のように数人単位で、ワイン片手ににこやかに談義をしている風景を見て、これがドイツかと感じた。

それぞれ彼女たちが飲んでいるワインを一口ずつ飲んでみてといわれたが、躊躇せず飲んだら彼女たちも喜んでくれた。中にはお前に会った記念にと、わざわざモーツァルトの付いたチョコレートを買ってきてくれたオバちゃんもいた。結局3軒も梯子をしてしまった。肝心のワインを飲むのも買うのも、すべて彼が手取り足取りやってくれて、しかも日本に半ダース送付することもできた。さらに彼は翌朝ホテルまで来て、ロマンチック街道のバスが出発するバス停まで一緒に連れ添ってくれた。この献身的な親切はなんだろうかと思ったが、それは私とドイツの「赤い糸」かもしれない。このようにドイツ人は他の欧州の民族とは違い、非常に日本人(というより私自身)の気質に合う民族だと感じた。

トヨタ生産方式との出会い

オムロン倉吉に入社して10年目に、技術系の業務から製造へと異動があった。そのまま技術の業務を行うものと思っていたので、非常に不満があり工場長に大声で食って掛かっていった。決まった人事は変えることはできなかったが、結局この人事異動がその後の人生を決めたといっても過言ではない出来事になった。実はその一年前の29歳の時に、疲労が原因でA型肝炎になり、緊急入院する羽目になった。その当時は、「当然俺が出来るなら、お前もできるはずだ、残業OKも徹夜OK。」のようなどんな無茶をしてもやり遂げるという、まるで人間ブルドーザーのような生活をしていた(過労死しなかったのが不思議)。

入院して起き上がることができなく、ベッドで寝たままの生活が1か月半続いた。この時に今までは、「生きている」と自負した生活だった。入院して体を自由に動かすことができなくなり、「生かされている」ことがようやくわかるきっかけになった。もう少しで慢性肝炎になるところだった。この入院生活とリハビリの1年間の生活から、考え方を随分変えることができるようになった。これからは、生きているのが儲けであり、これからの人生を奉仕や貢献に使って行こうと考え始めた。

そのことがあり、当時の人事異動も今から考えると、私への思いやりではなかったかと思う。製造に異動してからは、数十人の課員をまとめて生産活動に勤しむことになった。その2年後の1986年にトヨタ生産方式を導入することが決まり、そのモデルラインとして白羽の矢が当たった。その担当に命ぜられ、毎月コンサルタントが訪問することになり、指導を受けることなった。

最初はコンサルタントに言っていることが理解できなかったが、これは今までと全く別物で、しかも今やっている逆のことをやろうとしていることは理解できた。これは面白そうだと思ったが、実際にやってみるとなかなか出来なかった。いつもできないことを言い訳していたが、半年たって分かったことがあった。本来の業務と改善との兼任をしていたので、どっちつかずになることだった。そこで改善に専念することを上司と課員に宣言した。幸い課員の快い承諾もあり、逃げる道を断ち切って取組むことになった。

コンサルタントになる

逃げ道を自ら絶ったので、試行錯誤、四苦八苦、暗中模索などはあったが、一年後は大きな直線の生産ラインを数本の小さなU字ラインに置き換えることができた。しかも生産性を以前より向上することができ、大いにトヨタ生産方式を学ぶことができ、自信もついた。生産ラインが構築でき、さらに続いて購入部品のためのカンバンの運用、入りと出の物流改善、生産計画の改善、間接部門の改善なども手掛けるようになった。十数社の仕入れ先にも出向いて、社内コンサルタントの経験を積む時期が続いた。その頃には、オムロン内でも交流会が盛んになり、多くの工場とのやり取りで刺激だけでなく、ノウハウも次第に積み上げていくことができた。

改善事例の発表も多く手掛けるようになり、多くの人の前でのプレゼンもできるようになってきた。オムロン社内だけでなく、外部でのプレゼンの機会も出てきた。日本IE協会の事例発表は、20あるセッションで最も多くの観衆を集めた。すぐに事務局長から次年度も是非プレゼンして欲しいとリクエストもあり、2年続けてプレゼンしたことがさらに自信を持つことになった。1996年から2年間は東京のコンサルタントに来てもらっていたが、すぐに現場に出向いて具体的に質問、指摘、アドバイスなどを出すコンサルスタイルが魅力だった。会社を辞めて、コンサルタントになる夢はこの頃に生まれた。

仕事も順調で、およその業務は半日で処理できるようになっていた。会社を辞めようと考えた3年間は残業もしなくても良かったので、終業と共に社内のサウナに入るのが日課になっていた。コンサルタントとしての勉強も、次第に本気モードになっていった。その頃30歳、40歳、45歳、50歳といった節目にこれからの人生を考えようという取り組みがオムロン全社で始まった。45歳の時にその説明を受けて、3週間の有給休暇も取得できた。

以前呼んでいた東京のコンサルタント会社に、転職して就職できないかと相談を持ちかけた。「ウエルカム」の返事が来て、どんなことを実際にコンサルしているのかを伺うこともできた。そして節目休暇にドイツで実際に確認することができた。10社ほど同行しながら、実際のコンサルスタイルを確認することができた。その内1社では、得意とするU字ラインの1個流しのテーマで、ドイツ人に説明して改善のアドバイスもする機会を設けてもらうことができた。

この2週間で、決定的に転職する意志を固めることができた。しかし最終的には家内の承諾が必要であり、その対応(いわば転職する言い訳の模索)を当時顧問に来て頂いたKさんに、随分とアドバイスをもらった。その間色々な言い訳を準備に半年を要して、家内に「コンサルタントをやりたい!」旨を伝えた。返事は意外にも承知したというもので、拍子抜けしたくらいだった。半年間の生活態度を見ていて察していたようであった。

上司の了解も得て、2000年1月20日退職し、翌日から東京のコンサルタント会社に就職した。翌月の2月から早速ドイツでのコンサルタントとしての仕事がスタートすることができた。しかし実際に仕事をしてみると、いくらでも海外こぼれ話のネタになる出来事が転がっていた。その多くの失敗談を笑いのネタに変えて、これからも皆さんと共に楽しんでいきたい。