海外こぼれ話 157             

 

ドイツでもコマ遊びをしていた

 

 日本のコンサルタント仲間が、長野県の伊那市で毎年行われるコマ回し大会のスポンサーになったという。決められたルールでコマ回しの戦いを行うが、ユニークなのは勝った方が負けた方のコマをもらえる仕組みだ。優勝すればすべての参加したコマが手に入り、翌年の大会までにノウハウを吸収し、新しいノウハウを培うことができるという技術系の人がワクワクする仕掛けがあった。 

その伊那市が取り組んだ「完全地産」と謳って、「さくらコマ」というコマを1260円で発売されることになった。彼の紹介で、欧州のお土産にするために5個入手した。そのコマは桜のつぼみの形をしており、回転させると花びらが開くという仕掛けになっていた。止まれば元の形に戻るようになっていた。そこで改善もやり続けていると花びらのように開くが、活動が停止すれば元のつぼみのようにしぼんでしまうことを示唆して、コマをプレゼントするようにした。

小さなコマなのでセミナールームでは全員が見ることができない。そのために、予めビデオに撮っておいたものをプロジェクターで上映した。そして各工場の工場長レベルの人にそのコマをプレゼントした。このような動くお土産には、彼らは非常に喜んでくれる。そしてある工場長は、子供の頃には紐を巻いてからムチのように引っ張りコマを回して遊んでいたという。それはまったく日本と同じコマ遊びであった。手の上に載せたり、コマ同士をぶつけたり、どっちが長く回っているかなどの競争は、日本と同じであったのはびっくりした。

そしてガラス玉を知っているか?と訊ねてきた。いわゆるビー玉遊びであり、それも話をしてみると同じような遊びのルールであった。子どもの発想はどの国でも一緒のようであり、何もないから何でもおもちゃにしてしまうという発想の転換と実行力が、自然に身に付いていたのだ。ルールも自分たちでやりやすいように作り変えていったことも、自分で考え行動し自ら楽しんだ時代であった。そして40年以上前はドイツも子供は道路が遊び場だったという。

当時は車も多くは走っていなく、我々の昭和34年頃の国道9号線が出来た当時と同じ状態だったようだ。釘刺しの遊びは、あったかどうか今度聞いてみたい。現代は遊びといえば、ゲーム機での個人的な遊びが主体になっており、いわゆるガキ大将と一緒に遊ぶことで、上下関係の仕来り、ルールを作り守る、ケンカの成敗など、基本的な人間関係のやり取りが失われつつあるのは残念だ。

  

外観からは想像できない改善マン

 

 ある工場のワークショップにおいて、巡回する時間がなくて予定していたチームに行くことができなかった。1日の終わりにそのことで、チームから少し嫌味な発言があった。約束していたにも拘らず、それができなかったのは、こちらの時間配分が不味かったせいであり素直に謝罪した。翌日は真っ先にそのチームに出向いた。昨年から取組んでいた改善活動の成果を見せようと待っていたのだ。5Sも非常に良くなって、見違えるような職場になっていた。

彼らはこれらの改善の評価をして欲しかったのだ。どのように取り組んだかを、質問を交えながら訊ねっていった。彼らはとても嬉しそうに説明をしてくれた。チームリーダーは腕には大きな入れ墨をしており、頭はモヒカンカットでプロレスラ―の体格をしている。しかし物腰は非常に大人しく、2年前の1個流しのラインの構築に関わったことで、大きな自信を持った人だ。

彼のチームはそれ以来熱心に改善に取り組むようになり、チームメンバーも彼の指導に満足しているようで、毎回テーマを自ら掲げてくれる。今回は設計や品質管理の人たちも、自ら巻き込んでいく積極性も発揮してくれた。外観では人の性格は、想像もできないものだ。そしてきっかけを基に自己改革までやっているのだから、実に頼もしい限りである。

 

スイスのレンタカーはメガネという車

 

バーゼル空港に着いて、リースタットという街へは25kmなので、タクシーを頼むと非常に高額になるので、レンタカーを借りることにした。フランス側のレンタカーを頼んだ。その車はルノー社の「MEGANE」という名前で、眼鏡かと思ったら、「メガン」という呼び名であることが、フランスの人から教わった。ディーゼルエンジンであったが、音は静かであった。ところが走り出して、すぐにカーナビが作動しなくなった。このバーゼル空港は、すぐ近隣にドイツ、スイス、フランスの3か国が入り乱れているので、道を間違えやすい。案の定、通訳は間違えて道を大回りする派目になった。しかもスイス領に入った時には、高速料金40ユーロまで払わされた。

フランス領に入った時はカーナビが復帰したが、スイス領に戻った時はまた作動しなくなった。結局携帯電話と道路標識を基に移動することになったが、30分ほど余分にドライブすることになった。この車でドイツまで移動したが、フランス領は地図が明確になっているにもかかわらず、ドイツ領もまったく作動しなく、ドイツ領の地図は真っ白になっていた。普通のレンタカーは、欧州全域をカバーしてくれる。

この辺にフランス人の姑息な性格が丸出しになっていた。知人がおっしゃるには、「ケチで意地悪なところがあって、他を非難するのは人の百倍なのに、ちょっと批判されると百倍怒る国民性がある。」そうだ。フランスは、車も人も本当に疲れる。でも感心したのは、燃費が非常に良く満タンでおよそ900kmも走ることができたことだ。ナンバープレートには「CS」とあったが、これは顧客満足(Customer satisfaction)の略称ではないことは明確だった。

 

スイスの二人の部長はバイクが趣味

 

 スイスのM工場では、世界的な企業の一番小さな工場であるが、また今年も全社で表彰されることになった。400工場もある中で、2年連続しての表彰になる。なぜこの小さな工場がこんなに改善が進むのか、本社は不思議に感じている。それは大企業病になっているといいたいが、これは大きな声では言えない。

この工場の社長が、外部からの雑音をすべて遮断していることが大きな見えない力と考えている。表にはあまり出てこられないが、しっかりと支えておられる。さらに製造部長、製造課長の非常に積極的な取り組みが、社員の考え方と行動を変えてしまったことによると考えている。彼らは私に対する信頼感があり、一切を疑わないですぐに行動する素直な点も挙げられるだろうか。

今回は製造ラインのテーマに加えて、久しぶりに間接部門のテーマも上がってきた。設計変更の依頼をしても10日以上も掛かっているので、依頼する人たちが諦めてしまっている状態になっていた。設計部長も参加して、改善に取り掛かった。結果として、10日以上をわずか2日間に短縮し、作業時間も29分を7分にしてしまった。役所的な仕事をするスイス人にしては、画期的な結果が得られたと思う。やればできることを間接部門でもできたので、これから加速して改善が進むだろう。

私の古典的な(1981年製)車であるいすゞ製の117クーペの写真を紹介したら、製造部長と開発部長が身を乗り出してきた。彼らも古い車やバイクが大好きで、製造部長は1954年製のバイクを持っているという。写真を見せてもらうと、まったく錆がなく新品のようであった。もう一台は、ホンダ製のCB750で、いわゆるナナハンを持っていて、もう20万km以上も走っているという。これもまったく錆はなくてキラキラ光っていたが、自分で改造してエンジンのシリンダーを大きくして1000ccにしているという。開発部長のバイクはスズキ製であり、以前はいすゞの車に乗っていたというので、話が弾んでしまった。メンテも自分でやるのは、欧州のマニアの特徴だ。

 

計算できない若いウエイター

 

スイスの工場で泊まるホテルは、街中と山の中を使っている。先回は街中のホテルでコーヒーメーカーにボウフラが入っていたので、今回は山の中のホテルにした。このホテルは4つ星で、堂々とした建物だ。食事も非常にレベルが高く値段もかなりお高い。通訳と別なメニューを頼んで、美味しく食べた。若いウエイターが担当していたが、別々に支払うと言ったら頭を抱えてしまった。自分がオーダーをキチンと聞いていたので、請求書も区分できるはずが出来ないというが出来なくパニックになったようだ。

随分と時間が経ってから、上司の女性がレシートを持ってきた。合計の値段の半分ずつを請求してきた。頼んだものが別々なので、振り分けて欲しいといったが、一向に「料金は半分です。」と言ってまったく受付けようとしない。その女性は客を客と思っていない態度を取ったので、完全に頭に来てしまった。通訳が自分の方を余計に払うと言い出したが、その計算をしようとしない態度に怒っていることを理解しようとしないのは、スイス人の特徴なのかと思ってしまった。せっかくの美味しい料理がこの傲慢な態度で、一気に不味くなってしまった。でもこぼれ話のネタにはなったが、後味が悪かった。

朝食は昨年よりも品数が減ったのが見えた。ハムやチーズの種類が減ってきた。スイスは欧州でもユーロ圏内と違うので、輸入している物品の関税が高くコストアップになっているので、手っ取り早いものからコストダウンをしているようだ。ケチにならざるを得ないが、もっと頭を使って欲しい。サービスは物品ではなくとも、挨拶や心遣いでも客は満足するものだが、このホテルもコンサルをしたいくらいだ。

 

上海飯店の女将さんが妊娠していた

 

次の訪問先は、いつも通っている会社の近くであった。そのため近くの行き付けの中華料理店に立ち寄ることにした。その名前は何度かこの海外こぼれ話に登場したことのある「上海飯店」であり、4か月ぶりに訪れた。メニューは100品以上もあり、いつも選ぶのに苦労するくらいの品数があり、ボリュームも満点で、しかも味がいいと来ているいい店だ。

いつも愛想の良い女将さんのお腹が大きなっていた。彼女は中国人なので一人っ子政策の影響を受けていたと思っていたが、国外に脱出するとそうでもないようだ。娘さんが一人いるのは、いつも店に出て来ていたので知っていた。 

 女将さんの満面笑顔と愛想の良さは、この周辺のレストランでは一番良い。妊娠したことが明白だったので、娘さんは何歳かと訊ねたら、なんと14歳という。お腹の子どもさんが出産ともなると、15歳違いの兄弟になってしまう。今度は2人目だという。ドイツではこのような状態を、事故があったとも表現するそうだ。まさか出来るはずがないのに、出来ちゃったので事故のようだということだ。周りを見ると男性はわれわれだけで、あとはすべて女性のお客様であった。味の良さは女性が良くご存じだ。この店はいつも流行っているのは、この味付けの良さと女将さんの気さくな会話のやり取りとサービスの良さの成果だと感じた。

その日のえびせんべい(前菜に出てくる。シャーベン)は、いつもより一回り大きかったが気のせいか。メインの海老料理もとても美味しくすべて平らげてしまった。最後のシュナップス(焼酎)は、おめでたいということで2杯も飲んでしまった。いつも中華料理の最後にせんべいが出てくる。折りたたんだせんべいの中には、おみくじのような紙片が入っていて、諺的な言葉や格言が英語とドイツに裏表で書いてある。

この茶色のせんべいの名前を知る由もなかったが、これがかの有名なフォーチュンクッキーということを、この時に初めて知った。ドイツに来て十数年になるが何度も食べていて、せんべいの名前も気にしていなかった。これが今ではAKB48の歌になっており、「恋するフォーチュンクッキー」として鳥取県バージョンの振り付けもユーチューブで見ることもできる。平井鳥取県知事も「鳥取にはスタバはないが、日本一のスナバがある」と手話でも表現され、色々な場面でも踊っておられる。気にしていないということは、本当に空気のように見えなくなってしまうものだとつくづく感じた。

 

ランチはライン川を見ながら

 

ある企業で2時間のセミナーの依頼があり、2時間5分で上手くまとめ上げた。参加者からは、今までにない感動を得たなどと大好評のセミナーであった。途中からギアが完全にシフトアップしたことが自分でもわかったほどなので、相手の反応も良く感じ取れた。シナリオは3日前に作成していたが、本番前にその会社の社長からもヒントをもらい、そのヒントもセミナーの中に盛り込むことができ、彼らの期待以上の話ができたみたいだ。聴衆の顔の反応を見ながら、用意していたシナリオの微調整も上手くいった。

気分も天気も良いので、そのままレンタカーでデュッセルドルフまで帰ることにした。せっかくの春の良い天気なので、ライン川の沿線を走って、丘の上からライン川を見ながら食事をする段取りになった。2002年からライン渓谷中流にあるユネスコの世界遺産になっている、ザンクト・ゴア―の街に立ち寄った。ここには有名なラインフェルス城があり、川を渡れば観光で有名なネコ城、ネズミ城、ローレライもあり、立ち寄った人もいるだろう。

そこの4つ星のシュロスホテルのレストランは、眼下にライン川を見ることができ、窓側はかっこうの見物席になる。既に特等席は一杯で少しはずれたテーブルで席を取り、少し遅いランチにした。ちょうどバイキング料理があったので、待たなくても良いからすぐに選ぶことにした。ウエイトレスは民族衣装を身にまとっていた。ワインは白のトロッケン(辛口)のリースリングを飲む。イースターが近いので、ウサギや卵が至るところに飾ってあった。この雰囲気はよかったが、牛肉は噛み応え十分であり疲れるほど固かった。でもその他の食材でお腹は一杯になった。対岸や城、そして庭も写真に収めた。

隣のホテルは、ドイツで最も有名なセミナーのホテルで、何度もドイツのナンバーワンに輝いている。眼下にはライン川が流れており、沿線で最も眺めが良いとも言われているが、施設ではなく景観が良いので一番になったと思った。

そこから再びドライブしてデュッセルドルフまで戻ることができたが、アウトバーンの沿線には、白や黄色の花がいっせいに咲いていて、目の保養になるドライブになった。大好きな萌黄色になる若葉はこれからであり、「お楽しみはこれからだ」。(これは有名な映画のセリフです)

 

電子レンジが壊れた

 

デュッセルドルフのアパートでの楽しみは、一人チビチビとワインを飲むことだ。そのためには美味しい料理が不可欠である。5年前に日刊工業新聞社の某月刊誌に、「何でも食べまショー」というコラムを持ったことから料理を積極的にするようになった。自分でやってみないことには、コラムも書けないし失敗談も書けないので、大いに自炊を始める良いきっかけになった。日本製の電子レンジが以前の住民が所有していたものをそのまま使っていた。

11年前は、熱燗のチンくらいしか使っていなく、宝の持ち腐れ状態であった。だんだんと電子レンジでご飯を炊いたり、ラタトゥイユ(フランス風の軍隊のごった煮:聞こえは良いが余った野菜を混ぜ混ぜしただけ)などに使い始めた。生卵をゆで卵にした時は、大爆発した失敗もあった。料理のコラムではこの電子レンジを多用して、多くの料理を短時間に作る技も覚えた。ところが先日、バチンと大きな音を立ててそのまま電子レンジが壊れてしまった。使用年数はおそらく15年くらいなので、もうお釈迦様になっても良い年数だ。

新しいものを買うために、1km先に街の電気屋に出向いた。大きなその量販店に一番多くあったのは、コーヒーサーバーで200種類以上もあり、洗濯機は100台以上展示してあった。その光景は圧巻であった。電子レンジのコーナーに行くと20種類くらい展示してあり、安いものは45ユーロでオーブン機能までついていた。しかし取扱い説明書が読めないので、最もシンプルなものを50ユーロで買った。その重さは11kgでとても重く肩に担いで持ち帰った。早速動くか確認したが、問題なく料理が出来てホッとした。