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20年ぶりの車の運転」

ニューヨークは米国の中でも特別な所だ。マンハッタンに住んでいると東京と似たようなもので車がなくても便利に暮らすことができる。駐車場代もばか高いので車を持っていない人が多い。

我が家には車はあるがいつも夫が運転するだけ。車をずっと持っている理由は主として夫がニュージャージーに住む前妻との間の娘に2週間に一度会う為だった。それ以外ではたまに郊外に小旅行に行く時使うくらいだ。マンハッタン内の移動ではタクシーを使う。なぜなら車を無料でとめられるところがめったになく、タクシー代より駐車場代の方が高くつくからだ。

私は日本で4年くらい運転歴があり、米国に来てからはペンシルバニア州で2年、ニューヨークでは郊外に住んでいたころに2年くらいの運転歴がある。最後に自分の車を持って運転していたのは1994年頃だ。その後、マンハッタンに戻って車を手放してからは全然運転する機会がなく、ここ20年運転していなかった。

家には車があるのだからそれを運転しても良かったのだが、夫と結婚する前にすでに8年も運転していなかったので、運転に自信がなくなっていて、夫も私が運転するのを怖がるので、まあいいかとずるずるそのまま20年間も運転せず、すっかり臆病になっていた。

それが一念発起して、最近私は車を運転するようになった。というのも、2年前から請け負っているクライアントの事務所が郊外にあって、地下鉄、郊外列車、バスを乗り継いで待ち時間や歩く時間を全部含めると片道1時間50分もかかるので、今年こそ車で行けるようにしたいと思ったのだ。それにこれから年を取るとどんどん運転のセンスが悪くなる。今ならまだ間に合うから是非車を運転する能力を取り戻したい、勇気を出そうと思ったのだ。

しかし、さすがに20年も運転していないと、あれっ、と思うほど忘れていて「車のエンジンかける時ブレーキは踏んでおくんだっけ?ギアをパーキングに入れとけば車は動かないんだから踏まなくてもいいんだっけ?」なんてあほなことを考えるほどぼけていた。とりあえずネットで車の始動の仕方とか基礎情報を読んで最低限のことは頭に入れた。

久々の運転は夫が横に乗ってくれて近所の通りを走る。車幅感覚が難しい。他の車がどうしようとしているのか見極めるのも感覚が鈍っている。なんといってもウインカーとワイパーの棒を間違って押してしまう。というのも、私が初めて運転免許を取ったのは日本で、右ハンドルだからウインカーはハンドルの右についているが、米国は左ハンドルなのでウインカーはハンドルの左についていて、左手で操作しなければならない。久々の運転で体が覚えていたのは最初に習った右ハンドルでの操作で、ついウインカーを出そうとして間違ってワイパーを動かしてしまってあわてる。

それに郊外と違ってマンハッタンは交通量が多くて荒っぽい運転の人も多く、運転は簡単ではないというのが定評。郊外に住む人は普通に毎日運転している人でも、マンハッタンは怖いから郊外で運転はしてもマンハッタンでは運転しないという人が特に女性では多い。それほどマンハッタンは怖いのに、夫は私をいきなりマンハッタンで運転させる。マンハッタン育ちの夫いわく「自分は初めての運転はマンハッタンで習った。最初からこんな感じだったし、自分たちは郊外でなくマンハッタンに住んでいるのだからここで運転するしかないじゃないか。」と。それはもっともだ。しかし私は20年ぶりの運転で恐る恐るなのに、いきなりハードルが高くてビビリまくりだった。

とりあえず、何回かやっているうちに近所を運転するのは慣れた。夫がプロに運転を習った方が良いと言うので、プロに個人レッスンを受けた。一回2時間から3時間で3回受けた。特に家から郊外のクライアントの所へ行く為の運転に集中して、マンハッタンから橋を渡って高速道路を走って何度か往復した。車線変更のコツも特別に教えてもらった。プロにならって本当によかった。自信が持てるようになった。

さて、初めて私は一人で車を運転して郊外のクライアントの所まで行く。前日からスマートフォンで道路交通情報を入念にチェック。当日特に心配なのは橋での車線変更。行きたい方向へ進むためには入ってから短い間に二つ左の車線へ移動しなければならない。プロに習って何度も練習したから大丈夫と気合を入れる。

マンハッタンの高速道路と郊外へ行く途中の高速道路は交通量が多く、小さな事故は毎日のようにあるので気を抜けない。方向指示器を出さずに車線変更してくる車もいるし、ゆっくり走っていると、もっと早く行け、早く行かないならそこをどけとばかりに車のすぐ後ろに近付いてくる車がいて追突されそうでいやだ。抜かしたいなら追い越し車線へ行けばいいのに。

ちなみに私は、混んでいる時以外は高速道路をそんなにゆっくり走っているわけではない。時速60マイル(約96キロ)くらいで走る。それは制限時速55マイルの高速道路ではみんなが走る普通の速度で、道がすいていると70マイルくらいで飛ばす車がいて、そういう車にせっつかれるのが困る。とにかく安全運転、安全運転と自分で念じながら無事往復することができた。

次の難点は車庫入れだった。我が家の前には車を置くところがないので、歩いて10分弱のところに駐車場を借りている。郊外の広い駐車場ではみんな車は頭から入ってお尻から出る簡単な操作で済むのだが、ここの駐車場は幅が狭いので日本と同じで車はお尻から入れて頭から出るのがルールになっている。私は日本にいる頃から車庫入れは苦手だった。米国の郊外で運転していた頃も日本的にお尻から車庫入れをする必要はなかったのでちっとも学べてなかった。

それで、今度もやはりネットで車庫入れのコツをいろいろ調べて頭に入れて、駐車場で何度か一人で練習した。最初はなかなかうまくいかず、なんども駐車場をぐるぐる回ったりしていた。駐車場の人が、この人はいったい何をしているのか、みたいな感じだった。

4月にプロに個人レッスンしてもらって、5月からクライアントの所に車で週に2回か3回行くようになった。毎回同じ道を往復するだけなので7月の現在、さすがに慣れてきた。車庫入れも他の駐車場では自信はないが自分の所だけはピタッとできるようになった。運転する感覚をだいぶん取り戻してきた。まだ他の所はほとんど走っていないので、今後はもっと行動範囲を広げてどこでも運転できるようにするのが次のチャレンジだ。

日本で初めて車の運転をするようになった頃感じたことだが、車を持って自分で運転するということは、自由を手に入れることだと思う。もはやバス路線にも電車路線にも時刻表にも縛られることがない。道さえあればどこへでもいつでも行くことができる。車を運転するようになって近くにこんな所があったのか、こんな店があったのかと新たな発見があった。それまでは地図上の点と線しか知らない世界で生きていたのが、地図上の全面で生きられるようになった、世界が変わったと感じた。

近年、日本で都会の若い人が車を持たなくなったと聞くが、経済的問題がないなら車は持った方がよいと思う。レンタカーやカーシェアはたしかに経済的かもしれないが、車を取りに行ったり返しに行くのが面倒だ。それに毎回慣れない車に乗るのはリスキーだ。最近の車は複雑になっていて、ちょっとしたことでも、あのボタンはどこにあるのみたいな感じで、車種によって操作に慣れるのに時間がかかる。運転中に操作に気を取られてよそ見をしていたら危険極まりない。安全運転が一番だ。車はやはりいいものだ。運転する力を取り戻せたのがうれしい。