タイムシート

〜米国大手会計事務所では〜

 

一般企業では、タイムシートは勤務状況を記録するものであり、何時間働いたとか、いつ有給休暇をとってあとどのくらい残っているかとかの記録にすぎない。しかし米国で大手の、会計事務所、弁護士事務所、コンサルティング・ファームで使われる「タイムシート」は特殊だ。

 

私は90年から97年まで米国4大会計事務所の一つ、KPMGのニューヨーク・オフィスで働いていたのでその時の経験を紹介したい。今でも後輩たちとたまに話すことがあるが、タイムシートにまつわるファーム・カルチャーはほとんど変わっていないらしい。

 

米国で大手の、会計事務所、弁護士事務所、コンサルティング・ファームに共通しているのは、クライアントに対する料金請求の仕組みだ。基本的には、それぞれのプロジェクト仕事はその仕事にかかわったプロフェッショナルたちが使った累積時間でクライアントにチャージする。

 

クライアントにチャージする際は、ポジションによってプロフェッショナルにはそれぞれ値段がついていて、たとえばパートナー(パートナーシップ形態の組織で何人もいる経営者の一人)は1時間400ドル、シニア・マネジャーは300ドル、マネジャーは240ドル、シニア・アソシエイトは180ドル、アソシエイトは120ドルとかだ。

 

ちなみに、あくまでこれは事務所がクライアントにチャージする時の値段であって、それぞれ従業員であるプロフェッショナルが受け取れる報酬ではない。サラリーは年俸で決まっている。長時間働いても残業代はつかない。ただし人によってボーナスは多少出る。

 

タイムシートは原則的には毎日つけることになっている。実際には私は面倒くさいので1週間分まとめてつけていた。すべてのクライアントにはクライアント番号がついていて、同じクライアントでも別のプロジェクトなら別の番号が付いている。そして仕事の内容別にさらに細分化したコード番号が存在する。そして、どのクライアントの何というプロジェクトのどういう内容の仕事を何時間何分したか、15分が最小単位で、一日の仕事時間をタイムシートに記録する。

 

大きなプロジェクトにかかわっていると一日中同じ仕事をしているので、8時間を1本でタイムシートにつけられるので簡単だが、小さい仕事を複数抱えている時は、この仕事に何時間何分、あの仕事に何時間何分と、1日に10本以上つけなくてはならない時もあり、タイムシートをつけるのに時間がかかる。90年代前半まではタイムシートは紙ベースで、月に2回提出していたが、その後はオンライン・ベースで提出するシステムになった。

 

タイムシートで最もやっかいだったのは「タイムシート・コントロール」だった。すべての仕事にはタイム・バジェットがある。過去の記録から、この仕事ならだいたいこのくらいの時間でできるだろうと予想された時間があって、仕事を割り振られたプロフェッショナルはその時間内に仕事を仕上げることが期待されている。

 

たとえば、会社Aの財務諸表を監査するプロジェクト仕事で、パートナーが費やす時間は3時間、マネジャーが10時間、シニア・アソシエイトが30時間、アソシエイトが80時間とだいたいのタイム・バジェットがあって、おおよその総額のフィーは予想されている。もちろんその年によってクライアントのビジネス状況もいろいろ変わるので監査にかかる時間も変わるのだが、最初にクライアントに提示したフィーの予想額と大きく違うとクライアントも困るので、それほど大きくは違わない数字でチャージするのが通常だ。

 

ほかに契約によっては、仕事に何時間かかったかにかかわらず、プロジェクトで一定額というフィックス・フィー契約の場合もある。その場合は手早く仕事を済ませれば済ませるほどファームは儲かるが、時間がかかればかかるほど損をすることになるので、それも楽ではない。

 

各プロフェッショナルたちは、タイム・バジェットをなるべく超えないようにできるだけ効率よく、効果的に働かねばならない。KPMGニューヨーク・オフィスでは、クライアントにチャージする時間が1日8時間はあるようにと厳しく求められた。これは実に大変なことだった。クライアントにチャージする時間で1日8時間ということは、事実上1日10時間くらい働かなければならなかった。

 

というのも、クライアントにチャージできる時間というのは「プロフェッショナルとして出来て当たり前の仕事をしての時間でなければならない」と先輩たちに厳しくしつけられる。たとえば、自分の知識が足りなくて調べ物をしていてかかってしまった時間はつけられない。自分がじっくりやりたくてかかってしまった時間もつけられない。休憩時間も、同僚と話していた時間ももちろんつけられない。昼休みの1時間を除いて1日8時間だから、朝9時から夜8時くらいまで働いてようやくタイムシートを8時間埋められた。

 

これは比較的忙しくないシーズンのことで、忙しいシーズンは朝9時から夜10時、11時ごろまで働くことは多かった。ピークの時は土日も出勤でそれが2カ月くらい続いてとてもきつかった。しかし、忙しい時期は仕事がたくさんあるので、タイムシートはつける時間にあまり困らない。タイム・バジェットを気にしながらやや少なめにつければよいだけだ。

 

タイムシートは忙しくないシーズンの方が実はたいへんだった。それはファームはクライアントにチャージできる時間で毎日8時間を求めてくるが、忙しくない時期にはタイムシートを8時間うめるほどの仕事がない。それでプロフェッショナルたちはそれぞれ上司たちに、何かタイムシートにつけられるような仕事はないか聞きに回って、少しでも何かもらって来てなんとか8時間埋める努力をする。基本的に「ノン・チャージ」と呼ばれるクライアントにはチャージできない時間に対するコード番号もあるのだけれど、それはできるだけ使うなと言われていた。

 

ファームも忙しくない時期には、プロフェッショナルたちを1週間や2週間の研修に送り出したり、アウティングと呼ばれるたとえばゴルフ大会や野球観戦などを催して、「ノン・チャージ」を公式につけられる日を作ったり、有給休暇を取ることをすすめたりしていた。

 

この有給休暇というのもくせものだった。有給休暇は時間単位でとることができた。まとめて長期休暇を取ることもできたし、時間ごとに細切れにとることもできた。それは便利ではあったが、人によってはタイムシートが埋められない時に、有給休暇を数時間使ってタイムシートを8時間にすることがある人もいた。すなわち、休みたくない時に有給休暇時間を使わなければならなかったりする人もいた。

 

タイムシートはその人の業績を表す重要な指標でもある。プロジェクトベースで仕事は行われるので、そのプロジェクト運営をまかされたマネジャーたちが会議で誰を使うか話し合いで決める。優秀な人は引っ張りだこでたくさん仕事がくる。評判が良くない人にはあまり仕事が回って来ない。したがってタイムシートが埋まらなくなってくる。そして解雇の対象となる。

 

タイムシートにつける時間はほんとに微妙で、優秀でたくさん仕事があって、たくさんクライアントにチャージする時間があるのはよいことなのだけれど、仕事が遅くて時間がかかってしまうと、「仕事が遅い人」という悪い評判がついてしまう。それで少なからずのプロフェッショナルは実際にかかった時間よりも少ない時間をタイムシートにつけることがある。それは業界用語で”Eat time”と伝統的に呼ばれている。そういうことをすると実際にかかる時間の正しい管理ができないので”Eat time” はしてはいけないとアカウンティングの教科書にも書かれているが、今でもある程度行われているようだ。

 

米国の大手会計事務所で数年働いて辞めて一般の私企業に移った人は、みな口をそろえて言う。「普通の世界はこんなに楽だったのか!」と。タイムシートはほんとに厳しい。とても密度の濃い仕事を日々求められるので、3年働くと6年働いたよう気が、5年働くと10年働いたような気がすると皆が言う。しかし厳しいだけあって短期間にかなりの力がつき、次に良いところへ転職できるので、米国大手会計事務所は常に大学生の就職先としては人気だ。私も疲れて燃え尽きたが、たしかに力をつけてもらったことを感謝している。