湯梨浜町久留  杉本允子

 満年令九十才の私に「倉文協だよりのリレーエッセーを書いてくれないか」と、コーラスはわいの世話をしている人から声がかかり、記憶のうすれた頭を傾けながらペンを握りました。

 私が生まれて間もなく父は病死、小学五年生を修了して伯母の世話になり境港の小学校へ転校、続いて米子高女、鳥取女子師範学校を卒業して境小学校へ勤務、まだ戦時中で、校舎の一部は兵士の為に提供されていました。

 昭和二十年四月、港の運搬船玉栄丸が爆発し、海岸の倉庫が大爆発、火は町をなめつくしましたが、公表はされず、八月十五日には終戦の詔勅となりました。

 学生時代に、合唱団の一員として鳥取放送局へ行ったり、傷痍軍人の慰問に出かけたり、あの頃は疲れを知らない若さがありました。

 伯母が病死して私が故郷へ帰ったのは昭和二十一年十一月、母と娘の生活が始まりました。

 家から近い新しい中学校で音楽の教師に迎えられ、又昭和二十五年には結婚、教職は通算三十七年で昭和五十五年三月に退職、小学生の頃からの「学校の先生になる」の夢を果すことができました。

 勤務から解放され、意欲も高まり部落の小さな公民館に出かけて歌うことを始めました。幸いアップライトのピアノが置かれていたので大喜びで出かけ、少人数の歌唱を楽しみました。次第に人数も増し、近隣の町村にも呼びかけ、年一回のコーラス交流発表会を数年続けることもできました。

 おかあさんコーラス県大会は、鳥取の県民会館で開催され、白のパンタロンにアロハシャツの服装でステージに上り、「海の彼方から飛行機で、と言いたいのですが実は日本のハワイから車で…。」と言って大笑いした想い出があります。

 平成二十三年六月「アザレアのまち音楽祭」のステージを最後に退団を決めました。

 現在は、部落の公民館で老人が集まり、大きい声で歌やおしゃべりを楽しんでいます。

 人それぞれの人生ですが、まだ健康で楽しく生きていきたいと願っています。