海外こぼれ話 169        

 

お騒がせしましたが無事です

 

 324日の話だが、ドイツのLCC(ローコスト)航空会社であるジャーマンウィング(以下GW)機の9525便が、フランスのアルプス山脈に墜落したニュースが飛び込んできた。実はその1週間前に、デュッセルドルフ空港からスイスのバーゼル空港まで利用した航空会社の飛行機だった。事件のニュースは、すぐに訪問先の会社にも流れてきた。

その日のドイツでの昼休憩に、自宅に電話していたので家内は安心していた。インターネットのスカイプを使っている人には、私がパソコンを使っていることがリアルタイムで表示されるので、私が無事でいることがわかるが、ほとんどの人はわからなかったはずだ。

日本人の2名の被害者(副操縦士の身勝手な自殺に巻き込まれたので、この表現にします)の内、一人はデュッセルドルフ在中、60歳代、出身は鳥取県琴浦町と報道されたので、私を知っている人はすぐに連想されたはずだ。その証拠に帰国後に多くの方にお会いしたが、事故の対象者が一瞬私と疑ったと心配をお掛けしていたことがわかった。その後年齢が明確になり、お名前も公表されたので私ではないことが判明した。亡くなられた方は、奇遇にも米子高専の大先輩であった。合掌。色々とご心配をおかけしましたが、無事に生きております。

今週事件に遭遇した高校生のいた街を企業訪問のために通ったが、街中が悲しみに包まれてしまっていると聞いた。中にはデュッセルドルフのオペラ劇場の優秀なオペラ歌手も含まれていたなど色々な話を聞くことがあったが、どの話も萎んだ風船のように悲しくなってしまう。

このGW航空は、LCCだが夕方の便になると機内食を出してくれる。その時にもらった袋は(写真に掲載)、これを持っている日本人はごく少ないと思う。袋の中には、ハムかチーズのサンドウィッチと200cc入りの水、そしてチョコレートが入っている。腹の虫押えにちょうど良い量だ。親会社のルフトハンザ航空はこの手のサービスはなく、しかも料金の値段も高い。その週にベルリンで仕事があり、ベルリン・ターゲル空港を利用した。航空会社は、幸いにも事前に手配していたエアベルリンだった。

空港内を移動した時に、他の航空会社の受付カウンターには多くの人がいたが、GWの受付カウンターの前を通ったら2つの窓口には誰も並んでいなかった。たまたまかもしれないが、事件のあったすぐだったので、皆さんが敬遠したと容易に想像できる。最近よく使い始めた便利な航空会社なので、早く根本的な対策を取って欲しいと思う。

 

ドイツの名物?ストライキ

 

ドイツは労働組合が非常に強く、自分たちのイデオロギーのためなら会社も潰れても良いというほど自己出張をしたがる連中である。そのためにストライキが何度も敢行されるが、そのために乗客に被害が及ぶ。実はこの事故の少し前に、GWのパイロットだけのストライキがあった。

彼らの主張は、親方のルフトハンザより給料が安いので、55歳で早期退職して、なおかつ給料は65歳まで欲しいというとんでもない要求だった。普通は給料をいくらか上げて欲しいというものだが、このような考えられないことを要求してストライキに突入していた。親会社に対しても、不平不満や怒りが溜まっていただろう。そしてあの事件があったので、その後は急にパイロットたちは大人しくなったとニュースで紹介されていた。

ドイツは企業単位ではなく、パイロット、客室乗務員、地上勤務員など作業別に組合があり、それぞれ別な日にストライキをやる習慣がある。このために何度もストライキに遭遇し、急きょ列車に変更したりレンタカーを使ったりと、しわ寄せがすべて利用者に降りかかってくる。

フランクフルト空港で、飛行機が到着しても地上係員がストライキで誰もいないので、入国審査などができないことがあった。そのために乗客は、目の前に到着ゲートがあるにもかかわらず、数時間も待ったという出来事もあった。幸い私が乗る前日にストライキは解決したという。ちょっと運がいい!

今度は鉄道のストライキがあった。ニュースでは、「予想通りにDB(ドイツ鉄道)は、今朝からストライキに入りました」と放送するくらいなので、彼らは必ずやってしまう。今回は、事前に車で移動するようにしていたので難を逃れた。ストライキをやって組合が満足して、サービス向上があるかと言えばまったくなく、むしろ段々とサービスの低下を感じる。毎年繰り返されるので、市民は文句を言わないで我慢している。ドイツ人は頑固だなあ、とつくづく思う。

 

えっ?ファンタはドイツが始まり

 

コカ・コーラ社の炭酸飲料水の「ファンタ」が発売されて、今年で75周年になるとニュースに出ていた。アメリカ製かと思っていたら、実はドイツで作られたことが紹介されていた。

それは世界第二次大戦で、アメリカからコーラの原液が輸入できなくなったため、乳清(乳から乳脂肪分やカゼインなどを除いた水溶液、ホエーとも呼ばれる)とリンゴの繊維を代用して作った飲料水がファンタの始まりとされている。

今から36年前に初めてドイツに旅行に来た時に、ビールの国であるはずだがいたるところに「ファンタ」が売ってあるので、随分とアメリカナイズされていると思っていた。当時ビール1杯が、1ドイツマルク(当時日本円で、120)。ファンタは、350ml1.5ドイツマルクと高かった。当然ビールをいつも飲んでいた。ビールは今でも、500mlは瓶で買うと1ユーロ(約130円)と、値段がほとんど変わっていないことに気づく。

また当時ドイツにも100円ライターによく似たライターがあったので、それを買ったらファンタと同じ値段(1.5ドイツマルク)だった。よく見ると、「Made in JAPAN」と刻印されていた。日本では100円だったが、ドイツで買うと180円だったので、がっくりしたことを思いだす。

 

元要塞兼お城のホテル

 

旧東独地区に出掛けることが多くなってきたが、ベルリンの壁が壊れて東西のドイツの往来も経済の流れも随分と良くなってきた。東側はまだ労働賃金が安いことや国の施策で、工場が多く建設されたり移設されてたりしている。特に旧東独を走ると、一面の畑が目に入ってくる。協同で農作業していたので、大農場になっている。その土地を利用して、とても大きな工場をいとも簡単に作れる。旧東独は広々しているので、アウトバーンも快調に走ることができる。

前回のホテルはビジネスとしては良かったが、くつろぐにはあまり良いとは言えなかった。そのために彼らは、要塞兼お城だった建物を改造したホテルを紹介してくれた。外観も非常に素敵なもので、建物に入ると昔の階段を上手く見世物として活用していた。ちょっと豪華な気分になれる。

部屋に入ると、非常に広くゆったりとした造りになっており、十分にくつろげるようになっていた。ホテルがいいと、仕事も楽しくなることが多い。さらにホテルのレストランの食事も美味しいと、さらにモチベーションが上がっていく。このホテルはリングスホテルのチェーン店で、4つ星クラスだ。

レストランに入ると壁の側に案内された。せっかくなのでコース料理にした。ワインは、この地方で採れる葡萄で作ったものにした。ザーレ川沿線に葡萄畑があり、なんと北緯51度というドイツ最北端の位置にある。

このために他の地域と違い温度が低いので、石を使って太陽熱を土に伝えようと石畳みのように積み上げた畑が多くあるという。ケチなドイツ人なので、太陽の熱までしっかり囲い込もうとしているのが良くわかる。このやり方は、ドイツで一番ケチと有名なシュバーベン地方(シュッツトガルトの近郊、日本ではトヨタのある三河地方が相当する)にも多くみられる。

葡萄の植生期間が長く、果実がゆっくりと熟すのが特徴のワインが出来上がる。今回は地元の人が良く飲むという、ポルトガル品種の「ポルトガル人」という濃厚な赤ワインを頼んだ。妙な名前だとウエイトレスに訊ねてみると、この地方では葡萄の品種をそのまま銘柄にするという。

美味しいワインだと確認できたので、それに合う料理を訊ねてみた。カボチャのスープ、鴨のハム、ホタテガイのサラダ(これは失敗だった、旨味がなかった。内陸部に海鮮料理の美味い店は希だ)、生まれたばかりの子牛の肉ステーキはキノコ付きで、お腹一杯になった。コックの腕は良いことも確認できた。

朝食も同じレストランに準備されていたが、そのパンやチーズ、ハムなどの数の多いことにビックリだ。選ぶにも楽しくなってくるほど満載だった。パンは試しにクロワッサンをつまんでみる。香ばしいバターが食欲をそそる。ゆで卵を見ると、すべてにサインペンで目と口のマンガが可愛らしく描いてあった。その内の数個には、卵専用の毛糸の帽子まで被せてあった。

このようなおもてなしは、初めてのことだった。他のメンバーも喜んでいた。でも次の日はすべてマンガがなかったので、ウエイトレスのセンスとおもてなしの心の違いとわかった。ハムやチーズの種類も日によって違っていたのは、困ったことだ。このことから5つ星のホテルになるための改善点が見つかった。

 

反発者もビックリの結果が出る

 

この工場は2回目の訪問になり、今回から本格的に改善を始めることになった。本社工場からもメンバーが4人参加してきてくれた。経験者が多いと、すぐに活動ができるので安心していた。しかしそうは問屋が卸さなかった。仕事を変えたくないという、共産時代の化石のような考え方がこびりついている人が多くいたのだ。

この共産時代には、誰もが同じ作業をし、男女も関係なし、アパートの造りもまったく同じ、着るものも同じであったと、頭が硬直することが良くわかる。20年前に統一されたが古い人間には、変わることと変えることは拷問と同じようだ。現場改善をしていたら、作業台を変えようとしていた積極的な人に、「なんで変えるのか!お前はサルだ!」と反発を明らかにする人もいた。改善に燃えていた人が落ち込んでいたので、すぐにフォローする。

本社から来ていた責任者もそれを聞きつけて、すぐにフォローをしてくれた。不退転の気持ちで取り組んでいかないと、この会社は将来がないと懸命に説得に掛かる。やはり権限のある人が堂々と言うと、迫力が違う。表面的には反発者も矛を収めたが、安心はできない。反発者の気持ちを変えていくには、結果を出すことが説得工作の良い薬になる。残された時間の密度を上げて、改善に取り掛かる。

従来の構成の生産ラインは、当然ムダが多かった。そこでムダをなくし生産ラインを一から構築して、生産性の高いラインに作り上げる。本社工場で、最初にラインを作った時に反発していたFさんは、今一番積極的な推進者になっている。この工場で、組立てたことがない製品を一から作っていく。

従来はこの工場のベテランが、163分で完成していた。Fさんはなんと、31分の半分の時間でできるようになった。しかもその時間は、本社から来た初めて組んだ時間なので、慣れていけば20分くらいでできると想定できる。

これは今までの経験値であるが、それ以上の良い結果が出ることが多い。これをプレゼンの時に実際にやったのだから、反発していた人も文句が言えなくなってしまう。すぐには変わらないだろうが、結果が出ると説得力は強くなる。

この時にプレゼンに集まっていた人たちに、本社の責任者のKさんが人事異動を通達した。この工場で一番熱心でいつも本社の改善に通っていたMさんを、この工場の改善コーディネーターに推挙する発表があった。もちろんMさん本人には、事前に確認しておいた。その前に実は、私の方からKさんに具申しておき合意をしていた。このような人事の改善も、コンサルの重要な仕事である。まだこの工場では紆余曲折が予想されるが、どの企業も同じ道を歩んできたので、問題は歓迎だ。問題があるからこそ、コンサルは呼んでもらえるのだ。

 

結果を見せて改善を加速する

 

最近の改善のやり方は、問題発見したら訪問している2日間か3日間ですべて改善してしまうことを掲げて取組むようになった。それまでは残ったテーマをリストアップして、アクションプランとして彼らにフォローしてもらっていた。しかし多くは、実施されないことが多いことがわかってきた。

そのために、訪問している期間にやりあげる方針にした。最初は無理だと言って出来なかったが、ある時にすべてやりあげたことがあった。それ以来やりあげるように説得したら、かなりの頻度ですべてできるようになった。それからはできるものだという前提で取り組み始めた。

人の意識は不思議なもので、できたという事実が自信になるようで、色々な企業ですべてあるいは8割以上の確率で改善ができるようになった。そうすればあとでアクションプランを書く必要もなくフォローも不要であり、しかもやりあげたという気分も非常に良くなり自信も持てるようになる。

今回もV工場で、28件中26件を実施してしまった。残った2件は、長期テーマの内容だったので、実質すべてが完了できた。その話を他の企業にも伝えていくと、まさかと思ったことが実際にできるようになる。現実化する阻害要因は、これは無理だという先入観が50%、その改善するための知識がないというのが40%、この2つだけで90%も占めているという説もある。さらに意欲不足が9%、残った1%が閃きという。これを知るとほとんどが、心のサイドブレーキを力一杯引いているということがわかる。少しでもこれに気づいてもらい、自らの心のブレーキを外すことで身軽に改善ができるというものだ。

 

数年ぶりに旧友に逢う

 

15年も欧州で仕事をしていると色んな人に出会う。しかもこちらの人の経営トップクラスの人は、企業を渡り歩いてさらに地位と給料の良い方に転職していく。今回は10年前に3年間訪問している間に、同じ人員で生産性が2.5倍になった時の社長のSさんに、数年ぶりに再会することができた。

その時にはあまりにも会社の業績が良くなったので、オーナーが自分でも会社の経営をやりたいと言い出して、Sさんを追い出したのだ。その時に2人の部長も辞めてしまい、今その会社の人員は、10分の1以下になってしまった。

その後Sさんは、色々な会社の経営や営業(元々は営業マン)をしてきたという。結局自分の故郷に近いところで、会社を買収して社長になったという。2万uの広大な土地があり、ついでに自分の家まで敷地内に建ててしまったという。Sさんは、希に見る決断の速さの才能がある。ワークショップをやっている時に、非常に良い効果があればすぐに稟議書にサインをするような人だ。しかし彼は典型的なシュバーベン地方(ドイツで一番ケチな地方)の人なので、とってもケチだ。ムダなお金は一切使わないし、使わせないことがはっきりしている。

会社は製造業で数十人の小さな会社で古い設備ばかりであるが、現在の通信機能をふんだんに取り込んで、素早い対応ができるようにしたという。Sさんの性格がそのまま反映されることができるように、最終的には自分の会社に仕立て上げたようだ。今では奥さんや娘さんも一緒に、家族経営でやっている。

最初にSさんと会った時に、「いいワインを飲むには、人生は短すぎる」という台詞を聞いた。彼はその地方で、一番良いレストランで美味しいワインを提供してくれるのが常であった。その店やワインを紹介するのは、私が普通の人と違う視点でものをいうからであり、彼はそれを楽しんでいたようだ。

今回はまた別な台詞を用意していた。「私は、ワインを2杯しか飲まない。最初の1杯と最後の1杯だけだ」というので、なるほどと合点を打って大笑いになってしまった。この台詞は日本で大いに使うことにする。日本のある社長からは、「酒と女は、2ごうまで」という台詞を教えてもらったことを思い出す。

私は喋るのはかなり早いが、Sさんはもっと速いので通訳は翻訳が大変だ。アルコールが入ってくると、さらに加速度が増してくるが、その領域になると翻訳も不要になっていく。お酒の魅力は、言葉を不要にしてくれる粋な触媒だ。