「勉強ができる女子の心理」

 

最近ネット上で歌詞があまりにも性差別的だと炎上した曲がある。4月13日に発売になったHKT48の「アインシュタインよりディアナ・アグロン」という曲で、作詞は秋元康。そのネット上の批判は海の向こうに住む私にもすぐに届いた。歌詞はこんな感じだ。

 

「難しいことは何も考えない 頭からっぽでいい 二足歩行が楽だし ふわり軽く風船みたいに生きたいんだ 女の子は可愛くなきゃね 学生時代はおバカでいい テストの点以上に瞳の大きさが気になる どんなに勉強できても愛されなきゃ意味がない 世の中のジョーシキ何も知らなくてもメイク上手ならいい ニュースなんか興味ないし たいていのこと誰かに助けてもらえばいい 女の子は恋が仕事よ ママになるまで子供でいい 人は見た目が肝心 だって内面は見えない 可愛いは正義よ チヤホヤされたい」

 

まさにこれを読んだだけで吐き気がするような歌詞。ネット上では「どんなに勉強ができても愛されなきゃ意味がないなんてフレーズが、どれだけの女の子の心をえぐってきたことか。」「オッサンが女の子たちに、難しいことは考えなくていい、頭からっぽの方がいい、可愛くなきゃ愛されない、みたいな歌詞を歌わせるってどれだけおぞましい抑圧か。」とぞくぞくと批判のコメントが殺到したらしい。

 

それはそうだろう。2016年の今の時代に、こんな時代錯誤の、そしてあまりにもストレートな性差別表現満載の歌が世にリリースされたという事実に驚く。ああ、日本はまだこんな歌を作る人が出るような社会なのかな?時代は流れて結構変わったかと思っていたけど、まだまだだなとうんざりさせられる。

 

勉強ができる女子は愛されないか?そんなことはないだろう。ヒラリーは、女性が放っておかないと言われるモテモテのビル・クリントンをゲットし、結婚をキープしているではないか。皇太子様は頭脳明晰なキャリア・ウーマンで現職の外交官だった雅子様を特に気に入って是非にと望んでお妃に。

 

そうは言っても、長い人類の歴史からくるものの影響は小さくはないのも確かだ。私は学校はずっと男女共学だったので特に思春期の頃からいろんな場面で悩まされることはあった。私は自分で言うのもなんだが、勉強はかなりできたほうだ。スポーツも得意な方で特に陸上競技が得意で幼稚園の頃から高校卒業まで常にクラス代表のリレーの選手だった。ルックスも別に悪い方ではなかったと思う。当時いつも思っていたのは、「私が男子だったらきっと女子にモテただろうにな。女だったらなんでちっともモテないの?」ということだった。

 

私は中学生のころからいつも20年先のことを考えて生きてきたので、自分が将来専業主婦になるということは全く頭になかった。男と同じように働き、家庭をあたりまえのようにもつことを理想としていた。社会はそういう流れだから、生きる時代が30年もずれている両親や大人の言う通りにしていてはだめだと思い、自分の信念に基づいて行動していた。

 

私はよく愛想がないとか、可愛げがないと言われたものだ。たしかに私はあまり無意味にほほ笑んだり、にこっとしたりはしなかった。あまりへらへらするのはバカっぽく見えるし、そもそも人に愛想を振りまくということは媚びていることにつながるから抵抗があった。

 

私は親に言われて家事を手伝うのがいやだった。なぜなら親は2学年上の兄には何も言わないのに私にばかり家事を手伝えと押し付けてくるからだ。「なぜ、私にばかり言うの?」と聞くと「女はいずれ結婚して家事をしなくてはならなくなる。きちんと身につけておかないと。」という。「私は結婚してもずっと働くつもり。家事は女がすることだなんて誰が決めたの?男の人もするべきで、私にばかり言うのはおかしい。」と言って反発していた。それで家事が大嫌いになって、今でも家事をするのは苦手だ。

 

私はクラスで勉強がとてもできる男子に恥をかかせてしまって、嫌われてしまったことがある。忘れもしない中学一年一学期、初めての中間試験後のことだった。ある学科の男性教師がテストの点が書いてある男子の名簿を見て、「このクラスで成績が一番良かったのはO君の94点!」と言い、クラス全員が彼の方を見て、うわー、すごいねーという雰囲気。それから女子の名簿を見て「あれ?女子に96点の人がいた。肥和野さんが96点で一番!」今度はクラス全員が私の方を向いた。私は単純に嬉しかったが、あとでO君がどんな気持ちでいたかと思うと複雑でもあった。先生のミスであって私のせいではないのだけれど、こんなことがあると男のメンツ丸つぶれよねと思った。O君は特にしょっぱなのあの事件で、私を敵視していたに違いない。二人でクラス委員になったこともあったが、ほとんど口をきいてもらえなかった。嫌われてるんだなと思った。結構ハンサムで女子には人気の男子だった。

 

そんなことがあっても私は勉強をおろそかにすることはなかった。男子にモテるためにわざと成績を落とすようなバカげたことはできないとはっきり認識していた。たしかに所属集団の中で女子が上のポジションに行くと、自分より上の男子は人口的にどんどん少なくなってしまう。自分より上を望むとたしかにそうなる。自分より上の女子を男子は好まない傾向があるのも分かっていた。

 

しかし、現在の所属集団なんて一地方の一中学校という井の中の蛙の環境にすぎない。世の中には上には上がたくさんいるはず。私なんかより優秀な男は行くところに行けばざくざくいるはずだ。そういう所、すなわちレベルの高い大学へ行けばよいのだ。それまでは我慢だ。大学に行ったらきっと私でもそれなりにモテるはずだと思った。

 

高校生くらいになると、そもそもなぜ自分より上の男子ばかりをターゲットにしなければならないのか、そのこと自体に疑問をもった。将来自分自身に経済力があれば、別に結婚相手が自分より高学歴高収入である必要はないではないか。むしろそういうことに関係なく、男子が好きな女子を選ぶように、成績とか関係なく、単なる自然な好みで男子を選ぶ方が純粋ではないかと思った。

 

高校の頃、あの人いいなあと思っていた男子は、勉強はいまいちだったが、スポーツ万能でかっこよく、愛きょうがあって、ドップラー効果の救急車のサイレンを真似するのが得意な人気者の男子だった。野球部で背番号が8番で、私はいまだに何かのことで数を数えるとき1、2、3、4・・・「K君の8!」と頭の中で数える。

 

 最近、飛行機の中で最新作の「スターウォーズ フォースの覚醒」を見た。私はシリーズ第1作の「スターウォーズ」は好みではなかったので、あまり期待していなかったのだが、とても良かった。昔のスターウォーズがあまり好きではなかったのは、お姫様救出ものというストーリーが気に入らなかったからだ。

 

最新作のスターウォーズでは、なんといってもあの若いお姫様レイが、戦う戦士で強いのなんのって。最後は強敵の男と一対一で、まるで日本の武士のように自分の刀(ライトセイバー)で戦ってやっつけてしまう。なんと現代的なお姫様か!いかにも現代の米国らしい映画に変身していた。昔出演したハリソン・フォード(ハン・ソロ役)やキャリー・フィッシャー(レイア姫役)も出てきて、それなりに老けていて、観客である私たちもあの頃からもう30年以上もたったのかと時間の流れ、社会の流れを感じさせる映画だった。

 

米国の現代社会ではかなり男女平等は実現している。かちっとしたスーツを着て「男のように考え、男のようにふるまう」のはもう古臭い。現代は「あるがままの自分を受け入れそして前に進む」というナチュラルな感じのフェミニズムに。映画のアナ雪が大流行したのもそういう背景がある。現代の米国は、女のままで普通にあたりまえのように働ける時代だ。別にファッションやお化粧を楽しもうが、手芸を楽しもうが、子供のことを話そうが、年収にみあう働きをきちんとしていれば問題ない。妻の方が夫より学歴も年収も高い夫婦がどんどん増えてきている。これは日本でも近い将来訪れるトレンドにちがいないと思う。