今月の執筆者

米 増 祐 一

鼻歌の楽しみ

 私は、現在コーラスサークルに加入し歌っている。6月に開催されたアザレア音楽祭にも出演させていただいたが、あのような大舞台に立ち観客席に向かい歌うのは、気持ち良い反面、何とも言えない緊張感が伴う。私は小心者だから、人前で歌う事など無いと思って生きてきたが、こうした体験ができるのはコーラスのお蔭だと常々感謝しているところである。

 今回、このエッセーを書くにあたりいろいろ考えていたが、自分は『歌う』ことが好きなのだと改めて気づいた。ただ歌うと言っても、コーラスのように斉唱・合唱するため周囲との調和を考え歌う訳ではなく、「フンフフ〜ン♪」と口ずさむ鼻歌である。鼻歌は、曲を選ばず、場所を選ばず、自分の気分で好き勝手に歌えるところが魅力である。幼少期から、私の父親も無意識だろうがよく鼻歌を歌っていたから、その影響もあるのだろう。

 先程、鼻歌は場所を選ばないと言ったが、私のお気に入りは『風呂』と『通勤()路』である。『風呂』はエコーがかかるし皆さんも納得だと思うが、『通勤()路』も捨てたものではない。中学・高校と自転車通学で、現在の通勤も自転車で行っているのだが、通勤()路は農道で周囲に誰もいないから、ここぞとボリュームを上げて歌う事が多い。ペダルを漕ぎ、風に吹かれながら歌う声は、反響もなく拡がって消えてしまうが、その開放感と言ったら何とも言えないものがある。ただ学生の頃に一度だけ、日没後の帰宅途中に誰もいないと思って歌いながらペダルを漕いでいたら、散歩中の女性に遭遇し赤面したことがあって、いま思い出しても恥ずかしい出来事だが、やっぱり通勤途中の鼻歌だけは治らない。

 また最近気づいたことだが、私の中学生の息子も鼻歌を歌っていることがある。私は父親の影響で歌い始めたのだが、息子も私の影響で歌い始めたのだろうか?本人にその事を指摘すると猛烈に否定されるが、鼻歌を歌っている時は楽しそうなので、まぁいいかと、それ以上追求することはない。

 近頃は、通勤路沿いの田んぼの稲穂が日増しに色付き、重そうに頭を垂れている。今秋も物言わぬ稲穂たちに聞かせながら鼻歌通勤を続けるつもりだが、皆さんにもこの解放感を味わってもらいたいものである。(コーラスはわい)