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まさかのトランプ大統領

〜百人中一人の投票行動が

どんでん返しを生んだ?〜

NYタイムズは6月から毎日大統領選挙の予測を公表しており、ヒラリーの勝利確率は概ね平均して80%程度でずっと一貫してヒラリー優勢。1020日頃は93%、前日は85%だった。当日までヒラリーの勝利を米国に住むほとんどの人が予想していた。メディアが行う調査は調査方法に問題があることがあるので精度が落ちるものの、そこまで高い数字だと安心感があった。

私は昔日本にいた頃、大学院で社会調査研究に携わっていたこともあり、統計学的に正しい方法で行われた社会調査は当たるはずという立場をとっている。私はアルゴリズムを駆使した最新の社会調査でとても評価の高いネイト・シルバーの信奉者だ。彼は4年前多くが接戦予想をする中、オバマの圧勝を予測し、見事に50州のうち49州の勝敗をすべて当てた。

ネイト・シルバーもネット上で大統領選の予測を6月から毎日公表していた。8月のいっときを除いて一貫してヒラリーが優勢で、終盤でトランプが女性差別問題で大ひんしゅくをかった頃はヒラリーの勝利確率80%、FBIがヒラリーの新たに見つかったEメールの調査を始めた後で65%、訴追するようなことはないとFBIが発表した後は勝利確率が上がり、投票前日は71%だった。勝利確率だけでなく彼は両候補の選挙人獲得数の予測もずっと公表していた。

そのような背景があったからこそ、こんなに差があるのに、接戦だ接戦だと煽り視聴率を稼ごうとするTVメディアを私は批判してきた。私はヒラリーの勝利を信じて疑うことはなかった。まさかあの暴言吐きまくりのトランプが大統領になることはいくらなんでもあるまい。米国の過半数の有権者がトランプを選ぶわけがないと。他の少なからずの米国在住者もそんなふうに感じていたと思う。

11月8日、私はCNNをかじりついて見ていた。投票が開けられると意外にもトランプが伸びる。民主党が強くヒラリーが取るはずの州がトランプへ流れる。私が住むフロリダ州は歴史的に激戦州で僅差ながらもヒラリーが取ることが予想されていた。私も当日までフロリダ州はヒラリーで決まりだと信じていた。

しかしどうせヒラリーが勝つだろうから、あのいけすかないヒラリーに入れるのもしゃくだからとトランプに入れたという白人男性の声を聞いた。それを聞いてこれはやばいと私は直感した。そういう投票行動が思わぬ結果を招くことがある。英国のEU離脱の時と似ているではないか。案の定、フロリダ州は一進一退の激戦を繰り返した末に、フロリダ州の選挙人の数29人全部をトランプにもっていかれた。フロリダ州は米国の中でカリフォルニア州、テキサス州に次いで人口第3位の州で、人口比例で各州に割り当てられている選挙人の数が多いのでフロリダ州で勝つことは極めて重要なのだ。

ここで負けてもニューヨーク州やカリフォルニア州という大票田でヒラリーは必ず勝つからまだまだ大丈夫のはずと私は思っていた。しかし夜が更けて行くにつれヒラリーはだんだん苦しくなってきた。夜中の12時半頃ついにヒラリーは敗北を認める電話をトランプにして、トランプの勝利が決まった。

なんてこった、まさかこんなことが起ころうとは。あんなに人種差別、性差別、移民排斥などの暴言を吐く危険人物が、事実上地球で一番影響力が大きい国である米国の大統領になるなんて。トランプが米国大統領になるのは米国人として恥ずかしいと言っていた人が多くいたはずなのに、なんでこんなことになるのか。

私は選挙前日にフィラデルフィアで4万人を動員したヒラリーの最後の選挙集会をテレビで見ていた。独立記念館をバックにブルース・スプリングスティーンが歌い、野外で夜空がきれいで、まるでロックコンサートのようなすごい盛り上がりだった。フィラデルフィアは米国独立宣言が行われた米国創立の聖地。そこでこれからこの女性が米国大統領になろうとしている。新しい時代に入るのだと感じていた。今日はフィラデルフィア、明日はニューヨークのコンベンションセンター(ガラス張りの建物)でヒラリーの勝利宣言が行われ、女性がなかなか破ることができなかった困難の象徴、ガラスの天井が破られることをその番組を見ていた多くの人が予想していた。

それなのに、トランプが大統領になることに決まってしまったとは。私はあまりのショックに打ちひしがれ、明け方まで眠ることができなかった。最後の一歩の所で、ほぼつかんでいたものがヒラリーの手のひらからすべり落ちて行った。ヒラリーが負けたこともひどくショックだったが、社会調査がこんなに大きく外すとは。根底が覆された気がした。社会調査は統計学的に正しい方法で行えば当たるはずなのに、社会調査科学は死んだのか。何のための社会調査か。いろんなところが選挙予想の調査結果を出していたが、軒並み調査結果は大きく外れていた。これには誰もが驚いた。

考えられる要因の例としては、トランプを本当は支持していたが人に聞かれてトランプを支持しているとは言いにくかったという隠れトランプ支持者がかなりいたのかもしれない。それから先に私が取り上げたように、どうせヒラリーが勝つだろうから、トランプに大統領にはなってほしくはないがヒラリーに入れるのもしゃくなのでトランプに入れたというヒラリー嫌いな人たちが結構いたのかもしれない。

ネイト・シルバーの説明では、ヒラリーは2%程度の僅差で敗れた州が多かった。百人中一人がトランプではなくヒラリーに投票していればトータルとして2%動くので、ヒラリーは勝っていたはずで、50州のうち49州で自分の予測は当たっていたはずと。

60年代にも大統領選の予測をはずした社会調査が、社会調査法の教科書で有名な例として出てくるが、今回の大統領選挙の予想が大きく外れたことは今後大いに研究されることだろう。事前の社会調査結果が投票行動に与える影響なども含め、残念ながら現在の社会調査は人間の心理をうまく取り込むことはできていない。固定電話しかなかった時代は、社会調査はもっと精度が高かったのに、近年社会調査の精度が落ちてきているのは確かだ。社会が変わってきているのに社会調査がそれに追い付いていない。社会調査科学はもっと進化しないといけないと、信奉しすぎていた私は猛省した。

米国全体での総得票数ではヒラリーの方がトランプより上回っていただけに今回の結果は本当に残念だ。米国は合衆国なので各州の州としての選択を尊重する仕組みになっている。人口比例で各州に選挙人の数が割り当てられ、その州で一票でも多く取った方がその州に割り当てられた選挙人全部を獲得する。その選挙人の獲得数で競うというシステムなのだ。

選挙が終わった翌日、ニューヨークでヒラリーは敗北スピーチを行った。「価値観を共有してきた皆さん、勝てなくて申し訳ありません。米国は我々が考えていたより分断されていたようだ。アメリカンドリームは人種、性別、同性愛、宗教などにかかわらずこれからも続く。全国のサポートしてくださった皆さんに感謝する。皆さんの声が消えることはない。つらいですがこれからも正しいと思うことに戦ってください。私はガラスの天井を破ることができなかったけど、いずれ誰かがきっと破ってくれることでしょう。少女たちも夢を信じてほしい。戦ったことを後悔しないでほしい。」

私はヒラリーの前向きな姿に、ほんとうにいばらの道を歩いてきた人間の強さを感じた。ガラスの天井は思ったより分厚かった。そういう気持ちは私を含め、彼女と同じようにいばらの道を歩いてきた女性にはよくわかる。彼女は精一杯やった。誇りに思う。