海外こぼれ話 190 (2017年4月)     

最終回

ビルバオ市でのランチ

 最後にホテルの朝食を食べてから、ビルバオ市にまたリムジンタクシーで移動する。行きがけの時と同じ紳士の運転手だったので、安心して乗っていることができる。行きと帰りは同じアウトバーンだが、見る方向によって景色が変わる。1時間もすると、ビルバオ市の美術館の目の前のGホテルに到着した。

このGホテルは、この街で立地条件もよく最も評判の良く5つ星のホテルだ。顧客満足度がインターネットの口コミ(トリップアドバイザーというサイトで10点満点の9.1点とダントツであった)で、わかる仕組みになっている。例によって、美術館の見える側とそうでない側の部屋の値段は倍半分も違う。

荷物を部屋に投げておいて、すぐにビルバオのピンチョスを食べに行くことにした。お勧めの店は、フロントの年増の女性に訊ねた。「LA  VINA」とすぐに返ってきたが、彼女の行きつけの店だという。Kさんは6月にこの街に来ており、すぐにスマホに店の名前を入力して早速ランチを食べに行くことにした。

ビルバオの街は、サンセバスチャンの街と雰囲気がまったく違い、この地方の県庁もあるので都市化している感じがある。街を歩くと、黒人が多いことに気づく。彼らは、道端で露店を出してカバンなど小物を売っている。あとでわかったが、雨が降るとすぐに傘を何本も携えて傘を売っていた。人口もサンセバスチャンに比べ、2倍の35万人もいるからそのような商売もやりやすいのだろう。昔は、北スペインの工業地帯の街だったというがその面影は少ない。

チャコリの注ぎ方が違った

地下鉄の駅もあり、官公庁もある建物を左右に見ながらようやく目指す店に近づいた。ところが目に飛び込んできた店があった。その店もいい雰囲気だったので、ちょっと一口料理を食べてみることにした。サンセバスチャンとはちょっと違うようだが、こちらの方が料理のセンス良く洗練されている感じだ。店の雰囲気が良く、ランチでも紳士淑女風の客が多く見られた。

本当は立ったままが伝統的だが、今まで結構歩いたのでテーブルに席を取って座ることにした。この店のチャコリの注ぎ方は、グラスのすぐ上で注いでいた。他の店に行ってもこのやり方であり、サンセバスチャンの頭の上から注ぐやり方を違うことに気づいた。ショー的なサービスはないようだ。

でもピンチョス料理を選ぶが目移りしてしまうほど、美味しそうなものがたくさんあった。他の店でも食べたいので、3つに絞って選んだ。他の店は、見た目で入ることした。別な通りに行き外からのぞき込んで品調べを行う。「AMAREN」という店に決めた。エビ、タコ、貝の3つを選んで、またチャコリを飲む。チャコリは、白ワインのまだ発酵中のようで泡が混じっている。アルコール度も低く、昼から飲んでも大丈夫のようだ。以前紹介したビールにレモネードを混ぜた「ラードラー」のように軽いアルコールだ。

ビルバオのピンチョスの店は、サンセバスチャンほど観光客がいないので地元の人がゆっくりと会話も楽しみながらという雰囲気を感じた。だから落ち着いた感じに受け取れたのだろう。

ビルバオ・

グッデンハイム美術館

お腹も膨れたので、散歩がてら市内観光をする。サンセバスチャンのようにあまり観光するものはなかったが、ただで入れる美術館に行った。彫刻や現代絵画などがあり、ゆっくりとするにはちょうどよい散歩になった。入場料が、ただのせいか子どもから高齢者が多く見られた。

ホテルにいったん戻り、目の前にあるビルバオ・グッデンハイム美術館に行くが、目の前に高さ12mの大きな犬の畑?が目に付く。これは芸術品であり、全体が花生けになっている。作者は、米国のジェフ・クーンズである。ホワイト・テリアという犬で名前を「パピー」といい、バルビオのシンブルになってしまった。絵葉書にも登場している。

季節ごとに花を入れ替えて楽しませてくれるが、冬はほとんど花がなく、下地の緑と今植え替えている花の葉っぱだけが見える。上の方はクレーンで植え替え中だった。この作品の作者は、美術館にもある巨大なチューリップの作者でもある。小さなものを巨大化するのが有名な芸術家らしい。

この美術館は、中身よりも外観の素晴らしさというか奇妙さが売り物だ。設計者は、米国のフランク・ゲーリーだ。神戸にある「フィッシュ・ダンス」という巨大なオブジェでご存知の方も多いと思う。実は、デュッセルドルフ市内の港(ライン川の港)の近くにある変形した建物(名前は、「メディア・ハーバー・ビル」)が観光名物になっているが、その建物も彼の設計だ。たまに散歩のついでに見に行くことがあるが、片道3kmもあるので心構えがいる。

この美術館を建設する時には、市の予算よりも大きな金額であり、採算が取れるかどうか物凄く心配で喧々諤々の議論の末に建設されたそうだ。でも人の眼を引く建築と抽象的というかモダンな美術作品の相乗効果で、なんと3年間で元が取れてしまった逸話がある建物だ。多くの観光客が訪れるようになり、周辺の観光産業も盛んになったという。

美術館で観光客が激増した

1995年当時のビルバオ市の観光客数は、たった年間3万人であったのが、美術館が1997年にできてわずか3年間で投資した分が回収できた。そして、2009年は62万人、2015年の統計では110万人に一気に増えたという。美術館のもっている集客力は、凄いものがあることを教えてくれた良い事例だ。波及するものは、交通機関、ホテルやレストラン、土産物などなど数えきれない。

今、鳥取県でもめている美術館の建設も設置だけでなく、作品やそのコンセプトなどを上手く組み合わせると、観光の起爆剤になる。県立美術館は、ぜひとも中部に決まって欲しいと願う。ただ改善と一緒で、コンセプト作りが大切だ。

さて中の見学をしたが、建物の奇妙さだけでなく、空間のもつ広がりが次の空間を想像する楽しみを提供してくれる。本当に建物だけでも価値がある。建築の奇抜さで盛り上がったが、展示されている作品は抽象的なものばかりで、先の巨大なチューリップしか私の心に響かなかったのは残念だった。

美術館のそばには、ネルビオン川が流れているが、その対岸に東京の六本木にもみられる巨大な蜘蛛のオブジェがある。これは世界に3体あるという。今回の旅行の目的は、食べることが主体だったので芸術はこれでよしとする。周辺の市内観光をして、ホテルに戻り夕食のために体調を整える。

世界遺産の橋を見学

夜もまた同じ店を、2軒はしごすることになった。3軒目を見つけたのは、ピンチョスのチーズ専門店だった。若い店員が一人いるだけの小さな店だ。客が6人もいたので、カウンターに座れなく少し待った。人が集まるということは、味がいいと想像される。食べながら話をしていると、店員は南米のコロンビアから出稼ぎに来ているという。でも彼は。今回スペインで一番綺麗な英語で話をしてくれた。

そうこうしていると、店に女神のような美人が入って来られた。あまりにもお美しい方だったので、声をかけてしまった。「一緒に写真を撮ってもよろしいですか?」笑顔で「もちろん」と即答。彼女は、声をかけられるのが慣れておられるようだ。肩に手をかけて2枚も撮ってしまった。やはり鼻の下が伸びてしまっていた。外は雨だったが、「雨に歌えば♪」の気分になってしまった。

翌朝はホテルの屋上で朝食だ。このホテルの朝食は目の前に例の美術館があり、それを眺めながらの食事がリッチな気分になれる。噂通りの見た目にも食べても本当に美味しいものだった。ホテルの料金が高いだけのことはあった。美術館が見下ろせる環境も素晴らしい。

午前中に、ビルバオ市郊外にある世界遺産になった吊り橋を見に行くことにした。その橋はビスカヤ橋というが、タクシーで行くことにした。運河を船が行き来するので、45mの高さまで橋を持ち上げた橋だ。入り口近くまでタクシーを寄せてもらった。橋の手前に小さなかまぼこ状のテントが目に付いた。それは自転車置き場だったがセンスあると感心した。この地方は雨が多いので、濡れないように1台1台が収納できるようになっていた。(写真参照)

川幅は160mもある。橋の上からゴンドラを宙づりにしたように人や車(最大6台)を載せたカーゴが移動している。8分間隔で行ったり来たりしているが、橋の上は歩道にもなっている。高所恐怖症の私は話を聞いただけで足がすくんでしまう。

乗車券は自動販売機だったが、その使い方は全くわからない。係員を呼んで説明してもらうほどややこしかった。片道40セント(約50円)。定期はもっと安い。2分くらいで向こう岸に着く。着いたが民家ばかりで何もないので、仕方なく散歩だけをしてすぐに引き返すことにした。

地下鉄には

自動改札機があった

この街の観光はこの橋だけなので、すぐに目的は果たすことができた。帰りは少し時間の余裕があったので、市内を散策しながら地下鉄で帰ることにした。駅員に訊ねて切符を買い、改札口は日本のように切符を自動機に差し込む。ドイツではやっていない自動改札を、ビルバオでやっていたことに驚いてしまった。

また地下鉄の電車もお洒落だ。デザインのセンスは、ドイツと違うことがこんなところでまたまたわかった。タクシーだと一気だったが、地下鉄は10数の駅を経由した。街の中心街で地上に繰り出す。昨日昼食と夕食を食べたところに近い場所だった。また同じ店に行って、ランチのピンチョスをいただく。

最後のスペインの食事になるので、しっかり選んで食べることした。歩いてホテルに戻り、帰路のバルビオ空港に向かう。4泊5日のスペイン旅行は、とにかく食べることと飲むことに関しては最も充実した旅行になった。アパートの体重計が怖い!

昨年に引き続きガイド兼通訳をしてくれたKさんは、震災の前まで都内で旅行のコンダクターをしていたという。そのお蔭で事前調査と私の好みとも合わせて、旅行計画も立ててもらうことができた。これも偶然ではなく、必然の出会いがあったからだと思っている。わがままなリクエストにきちんと対応してもらい、心から大満足の旅行になった。

私の旅行の仕方は、ツアーではなくまったくの個人的な計画で、ガイド兼通訳に同行してもらうスタイルだ。大切にしているのは、時間と空間だ。団体旅行は他人のせいで、時間がずれたり、見たいところが見えなかったり、食べたいものが食べられなかったり、逆にストレスになってしまう。

その煩わしさから解放され、通訳と自由気ままにその時と場所に応じて臨機応変な旅が好きだ。朝見物してランチでワインを楽しみ、一度ホテルに戻り昼寝をする。そして夕方に散策して、ディナーで郷土料理を楽しみワインを飲み楽しく話をする。その分ちょっとお金がかかるが、自分の好きな時間を買うと思えば専任ガイド代の対価は十分にある。

海外こぼれ話について

コンサルタントになってから、特に移動の人生になってしまいました。仕事場が地元倉吉から、一気に欧州中心になってしまったからです。2000年2月から毎月のようにドイツに通い出して、今年で18年目となり約180回往復したことになります。ドイツの滞在期間は、普通2週間から3週間です。時には、6週間も滞在することもありました。

JALからの連絡によりますと、JALだけで500回の搭乗、飛行距離は200万マイル(その距離は地球と月を4往復)、飛行時間は5400時間などとなっていました。欧州の航空会社の飛行を入れると、1.3倍にもなります。さらに鉄道、車など入れますと、仕事時間よりも移動時間の方が多かったかもしれません。

その間16年前から、「倉文協だより」に「海外こぼれ話」を掲載し始めて、今回で190話となりました。1話の文字数は、約5600文字になります。原稿用紙だと14枚分になり、今まで執筆した文章を原稿用紙に換算すると約2,660枚となります。積み重ねると27cmにもなり、自分でもよく書いたものだと自分でも感心してしまいますが、チリも積もれば山の如くですね。

毎回6枚のA4用紙の最後の行まで、綺麗に話を埋めることも自分に課しました。綺麗に収めるには、当初苦労したものです。提出前の自らの校正時には、修正・訂正や間違い箇所が20から時には50か所以上も出てきます。

書くときは主観がかなり入っていますので、書き上げた時は満足しています。でも読み手の立場で客観視して読み返しますと、この表現はわからないなあなど次々と校正個所を発見できます。普通数回の読み返しをします。パソコンの画面だけではなく、実際に印刷しても確認をします。最後のつじつま合わせも、そのお蔭で上手くなったようです。校正のために数回読み直視しているので、他の執筆や他人の文章の校正にも結構眼力がついてきたことは確かです。

よくも色々なネタ探しができるなあと自分でも不思議に思いますが、元来のおっちょこちょいの性格があり、その失敗事例がたくさんあったお蔭かもしれません。またその失敗を、笑い話に切り替えるひねくれものの性格も長期連載を書くには良かったかもしれません。

なるべく同じネタが、重複しないように微妙な変化も常に試みてきました。女性の読者の多くから、食べ物の話を盛り込んでほしいとのリクエストもあり、ほぼ毎回取り入れるようにしてきましたが、いかがでしたでしょうか。

写真も毎回4枚を掲載することになり、合計約600枚になります。話にマッチするものやそうでないものもあり、戸惑いの作品もあったかもしれませんが、お愛嬌ということでご容赦願います。ネタ探し、話のストーリー構成、エピソードをさらに読み手にわかるようにアレンジしたり、普段感じていることもその中にさりげなく散りばめるなど、ただ書くだけの作業ではありませんでした。

時には仕事の話も盛り込みました。読み手の読者の皆さんが、読んだことによってご自分も一緒に旅行をした気分になってもらうように、手直しを繰り返してきました。お気づきになりましたでしょうか?

終わりと感謝

最近は、構成と校正、さらに校閲に時間がかかるようになってきました。あの石原さとみ主演のテレビ番組以来、校閲にはかなり神経を使うようになりました(冗談です)。このために入力自体は1話平均8時間ですが、全体で20から24時間も要するようになりました。慣れれば早くなるものですが、最近は繰り返しの「慣れ」ではなく「疲れ」になってしまいました。

毎月の欧州への通勤が、「痛勤」になってきたことは確かです。特に時差が取れにくくなってきました。これが、すべての思考や行動の妨げになってきています。使い過ぎで疲労骨折という言葉がありますが、「痛勤」による「へたり」()かと思います。欧州へこの種のコンサルタントで毎月通っているのは、業界で探ってみますと日本全体でもわずか10人もいないようです。西日本地区では、私だけのようで極めてまれなようです。成田空港への行き来で2日間も費やしてきたのは、今から考えると大きなハンディでした。

以前は5本の原稿を連載している時期がありましたが、当時はまだ50代でした。若かったのでしょう。納期遅れもなく書き続けてきましたが、今回で「海外こぼれ話」を完結とさせていただきます。長きにわたり、お付き合いいただき心より感謝申し上げます。

こぼれ話のネタを提供してもらった欧州の人たち、特にドイツ人の皆さんにお礼を言いたいと思います。また優秀な通訳の方々がいなければ、細かいニュアンスも日本語に変換できなかったと思いますので、改めて紙面をお借りしてお礼と感謝を申し上げたいと思います。終わりになりましたが、つたない文章を最後に校閲・編集し、掲載を続けてこられた計羽会長にも深謝致します。