「米国の公立高校」
米国では高校は義務教育だ。日本の6−3−3制度と違って米国はいろいろなスタイルがあるが一般的なのは5−3−4か4−4−4で高校は4年間。公立高校は学区があり特例を除いてどこに住んでいるかで行く学校が決まる。公立高校の質はピンキリだ。
まず米国の公立学校全体の一般論だが、地域の固定資産税が主たる財源で運営されている。経済的に豊かな地域にはレベルが高く質の良い公立学校があるが、そういう所は固定資産税が高い。貧困地域にはこんなところで教育が成り立つのだろうかというような監獄みたいな雰囲気の学校もある。そういう地域は固定資産税が安く学校は資金が少ないので質の良い教育の提供は困難な状況だ。公立学校は高校卒業まで授業料は無料。
子供を持つ親たちは住むところを決めるにあたってその学区の公立学校の質を重視する。ニューヨーク郊外で安全な地域で比較的良い学校がある学区は固定資産税が高くて、もちろん物件によるがたとえば年間1万5千ドル位する。マンハッタンの私立学校の学費は年間3万ドル位するから、郊外の良質の公立学校のある所に家を買って引っ越すという話をニューヨークで結構良く聞いた。もちろん住む場所は賃貸住宅でもよいのだが、固定資産税が高い地域は家賃にもそれが反映されるので家賃がとても高いのだ。
ニューヨーク市は人口密度が極めて高いので郊外とはちょっと違ったユニークな制度がある。学区に関係なく誰でも入試に合格すれば入学できるエリート公立高校が何校かある。有名なのはブロンクス・サイエンス高校とスタイベサント高校だ。一発勝負のペーパーテストの入試で選抜されるので、それに強いアジア系が多くて、スタイベサント高校では72%がアジア系で、白人23%、ヒスパニック2%、黒人1%、その他2%程度だそうだ。放っておくとアジア系の生徒ばかりになるので、ある程度のバランスを保つために近年は入試を工夫してアジア系以外の生徒にもっと門戸を広げようとしていることがアジア人差別ではないかと反対論もあり問題になっている。
つい最近10月31日ハロウィーンの日に、マンハッタンのワールド・トレード・センターの近くでテロ事件が起こり、自転車道をピックアップ・トラックが走って自転車の人や歩行者をつぎつぎはねて8人が死亡した事件があったが、その現場はこのスタイベサント高校のすぐそばだった。怪我をしたが翌日も学校に登校し、「僕はずっと欠席したことがなくて皆勤賞をめざしてるから。」と答えた生徒がいて、優等生の熱心で真面目な行動は世界共通だなあと感じた。それと同時に、無理しないようにねと私は思った。
米国の公立高校は一般的には大学のように授業は選択制で卒業に必要な単位をとって卒業する。学科によりAPクラス(Advanced Placement)という上級クラスがあってレベルの高い公立高校ではAPクラスがたくさん用意されている。APクラスは普通の授業よりかなり難しくて宿題や提出物など課題も多く米国で大学1年レベルの教養科目に匹敵する。APクラスで良い成績を取ると、大学応募にあたって有利だし、大学に入ってからそれを大学卒業に必要な単位として認められる場合もあり、APクラスを選択している生徒たちは一生懸命勉強する。
同じ高校にデザイン系、コンピュータ系、電機系など手に職系の授業や音楽・演劇・絵画など芸術系の授業もあってアカデミックな学業だけではなく、自分の適性に合わせて教育を受けられるという多様性がある。
現在私が住んでいる南フロリダでは公立のエリート高校は特にないが、様々なレベルのクラスを用意して能力と適性に応じてクラスを選択し生徒たちは卒業しているようだ。近隣には学費がとても高い私立高校がいくつかあって、寄宿舎つきの学校もある。親がとても裕福で夏休みはいつも海外旅行に行ったり、高級車を運転して高校に通学する生徒もいるようだ。そういう裕福な家庭の子弟が通う私立学校は成績の良い生徒もそれほどでもない生徒もいる。しかし荒れた地域の公立高校のように拳銃や刃物を忍ばせているような不良生徒はいないので親としては安心だ。
米国では原則的に「教育は親が買って子供に与えるもの」という共通認識がある。裕福な親が自分の遺伝子を継ぐ子を有利な教育環境で育てようとするのは人間として自然な行動。良い私立の教育を受けさせたければお金というペナルティーを払って子供をそこへ入れればよいということだ。そして、お金をたくさんは払いたくない、お金がない場合は公立学校で学べということだ。たしかに親が貧困でひどい公立学校しかないような所で生活する生徒は気の毒な状況にある。
しかし、どこの州でも地域には通える範囲の所にコミュニティー・カレッジと呼ばれる公立の2年制の短期大学があって誰でも入学できる。そこで良い成績をとってもっとレベルの高い大学に奨学金を得て転入することも可能だ。コミュニティー・カレッジには成績は良くても家庭の事情ですぐには大学に行けなかった学生もいて、真面目に一所懸命勉強する人も少なくない。一方、学業が合わない人もいるので、手に職系の科目を勉強して実務力をつける学生もいる。コミュニティー・カレッジは成人教育の場でもあり、一旦社会に出た人が学び直しに来て、それまでと全く別の職業に就いたりすることもある。また、地域の大人のカルチャーセンター的な学びの場にもなっている。
近年、日本で親の経済格差による教育格差がどうのこうのとさかんに議論されているが、米国で生活していると、米国の家庭の大きな経済格差に比べたら日本の「相対的貧困」なんてなにを甘えたこと言っているのだろうと感じてしまう。「相対的」なのだからどんなにやっても「相対的貧困」は終わらないではないか。共産主義社会でも皆同じなんて実現はできなかった。人間は工場で作られた機械ではなく、個々の親から生まれてきたのであって、一人一人持って生まれたものも育つ環境も違って当たり前。その違いをありのままうけとめて、その上で前に進む。その手助けが公的にあればよいというのが米国流。
日本には日本の教育制度の良さもあるが、欠けているのは個々人のレベルに合った教育の提供だ。日教組が強かった時代の名残りで真ん中にばかり合わせた「教育の悪平等」が近年少しは改善されてきたが、学力トップ層と底辺層に合わせた教育が不十分だと感じる。飛び級も落第もあってしかるべきと思う。
私立進学校では高校2年までに高校で習うべき全教科を終えて、3年生の1年間は受験勉強ばかりする所があるが、近年はそれがさらに早まって高校1年で全教科終えて高校2年3年の2年間は受験勉強ばかりに集中する学校もあるそうだ。私はそれを聞いて、高校で優秀な人材が大学受験の為に2年間も足踏みするとはなんと時間の無駄だろうと思った。大学受験勉強というのは高校3年間分のとても範囲の広い復習だ。そんなに長い時間復習する意味はあるだろうか?伸びきったゴムみたいな生徒つくってどうする?さっさと早く大学に行ってもっと先にどんどん進めばいいのにと思う。