海外こぼれ話 103        松田龍太郎(在デュッセルドルフ/ドイツ)             2009.12

 

ハンガリーの新しい通訳

いつもハンガリーの通訳はキッシュさんだが、急用が出来て彼女の友人だというラースローさんが代役になってくれた。この日のハンガリーに向かう移動は、大変だった。ドイツのハーメルンの会社から飛び出したのが、午後5時で、目指す次の会社のあるホテルまでが、所要時間9時間に及ぶものだった。ハーメルンからハノーファー空港には車で、それからウィーン空港に飛行機で飛んだ。そこからハンガリー商工会議所のコロッシュさん(30歳位の男性)が、自家用車で迎えに来てくれた。そこからハンガリーの東端にある街までの460kmを、彼が一人で5時間運転してくれた。ラースローさんを、道中の途中のブダペスト市内でピックアップするというのは、何と午後11時半であった。そこからさらに240kmをひたすら走り、結局ホテルに着いたのは午前2時だった。

途中この新しい通訳であるラースローさんに電話に出てもらったが、一言聞いただけで、「感じのいい人」だと分かった。声の調子だけでも、人柄が分かるものだ。ブダペスト市内で待ち合わせしたが、丸刈りの頭の好青年で、イメージどおりの明るい人だった。3日間の通訳を、安心して任せることができそうなので安堵した。それから車の中で自己紹介をして、お互いのレベル合わせを行った。どの程度の専門用語をご存知なのか、私の早い口調や鳥取弁(倉吉弁の方が適切か?)が理解できるか探りを入れて、感じを掴むことが非常に重要である。新しい通訳には、最初の擦り合わせが重要で、これが出来ないと全くセミナーがダメになってしまう。

名刺を見ると、ブダペストから100km東南に離れたソルノク市の市長顧問という肩書きがあった。会社の社長もやり、通訳は片手間にやっていて、その他にこのソルノク市の交響楽団のまとめ役もしているという元気人間だ。11月から12月までの1ヶ月間、山形から東京にかけて日本公演にも奔走されるという。この交響楽団の常任指揮者は、日本人の井崎正浩さんだ。異例の抜擢で就任され、ハンガリーでも話題になった人だ。13万人の街でフルオーケストラ(HPの写真を見て人員を数えると、70人ほどの団員だ)を編成できるのは、やはり欧州の歴史の重さだろう。

ハンガリーにも

鳥取県人がいた

自己紹介でラースローさんは、学生時代から通算で10年間日本に住んだことがあり、主に山形県で過ごすことが多かったという。電気の大手にも就職されてその間に学位も取られ、さらにブダペスト大学卒業後には、ハワイ大学でも学ばれたそうだ。日本人より日本語が上手であるので、全く違和感がない。前日まで8日間は、TBSテレビの「世界遺産」の取材の通訳をして、そのまま私の通訳をやることになった経緯を聞いた。その番組は、ハンガリーの世界遺産である「ホッローケー」という村の取材だったが、僅か数百人という田舎村で、本当に何にもない村だそうだ。変化を好まない人は、良い環境だろう。

彼に鳥取県はご存知かと尋ねたら、行ったことはないが鳥取県出身の人は友人がいるので、鳥取弁は問題ないとの答えだった。はて?そのような人は誰だろうと尋ねてみると、日野郡出身のひよこの鑑定士(正式には、初生ひな鑑定士)のAさん(多分少し還暦を過ぎたくらいのお年)だった。Aさんは、何度も雑誌に掲載されて記憶のある人だったが、鳥取県出身とは知らなかった。これで一気に親近感が出てきた。今では現地の奥様とご一緒になり、4万羽のウズラを飼育されているが、鶏ではないところが面白い。また2人の息子さんがおられ、Aさんとは家族同様の付き合いをしているそうだ。息子さんの一人は、某相撲部屋にも一時期入門された経験もあり、日本語はそこで学んだという。翌日機会が出来たので、その息子さんに電話をかけて、次回には必ず逢いましょうと約束をした。なんて世の中(世界)は、狭いものだろうか。

改善を一気に進めた

自動車部品工場

この工場は、私の同僚が2年前に訪問して、セミナーを開催した経過があった。その時の評価は、工場ではなく倉庫で仕事をしているようだったらしい。しかし、その間にその屈辱をバネにして工場全体が様変わりするほど改善をやってきた。今では、ポルシェ、ベントレー、ベンツのSクラス、アウディなど高級車の自動車部品を製造している工場である。私が見ると、ドイツの企業よりも改善のレベルは格段に良いと思った。それはやはりトップの強い意志によるもので、改善を絶対にやり遂げるという並々ならぬ熱意だ。社長は温和な顔をしているが、芯は相当強く、この会社の社長になってから3年だという。

それを受け止めて行動に結びつけたのが、改善担当のエバさんだ。お洒落で長身の美人だが、顔を見ると相当できる人だと分かる。彼女が推進役となり、この2年間皆さんを引っ張ってきた。話をしていても、非常に頭の回転が速くしかも鋭い。大学を卒業して10年になるといっていたので、お年は想像できる。社長と彼女の2人で会社の文化を変えてしまったが、会社の文化はこのようにやる気のある人がいれば変わるものであるが、良い見本を見させてもらった。

特に目で見る管理、整理整頓、表示標識、そして毎週必ず実施される改善活動は、真似をする価値があるほどだ。今まで訪問したハンガリーの工場では、勿論一番良かった改善の取り組み姿だった。

セミナーは今回も大成功

ハンガリー商工会議所主催のこのようなセミナーは、今回で10回になるという。そのうち私が講師になったのは、なんと6回目であり、私はハンガリー人好みらしい。ドイツでもユーモアたっぷりのスタイルが、最近好まれるようになってきたようだ。10年前はとても考えられないスタイルだが、時代が求めている感じだ。

普通のコンサルタントは、プライドがフランス人のように高い。また冗談を一言もいわずに、易しいことは出来るだけ難しく話しをすることが当たり前だった。製造現場を改善する一般従業員が納得するような話をしなければ、実際に改善はできないものだというのが、私の持論である。しかも楽しく、そしてチームワークを形成させるようにすると、その効果は絶大なものになる。

その秘密の薬というのが、ユーモだと考える。今回も大いに活用したら、12社から参加したメンバーの雰囲気は一変して、非常に和やかになった。元々共産時代に40年も弾圧されてきた背景もあり、雰囲気を変えることは大切な準備運動でもある。雰囲気が良くなると潜在能力が発揮されるので、目標としていたものは確実に達成でき、期待以上の成果も得ることが出来る。

来年のセミナーもこの工場で開催することが、すぐにリクエストとして返って来た。あとで聞くと、この工場で最も問題になっていたテーマを、全て取り上げたそうだ。いずれも期待以上の成果が出たので、社長は大喜びだった。そして、特別な「トカイワイン」をプレゼントしてもらった。当然、商工会議所の所長のマリアさんからも、2本のとても美味しい(以前から私の好みを知っておられるので、それを探してこられる)ワインも頂いた。これはもう恒例になっているので、訪問することが楽しみになっている。

1時間の会議のために大移動

話は替わって、ドイツの電気会社である大手のS社でのセミナーの話。以前この会社のV工場に、数年間通っていた時期があった。その時に私のコンサルスタイルを強烈に覚えていたEさんが、4年経って本社の偉い人に昇格していた。彼らから連絡があり、このS社の11月の記念日に講演をして欲しいとリクエストがあったのは、今年5月であった。半年前から準備をするものだと思ったが、せっかくの依頼なので受けることにした。

事前に私の講演する話の内容を確認したいということで、久しぶりに会うことになり本社に呼ばれた。ミュンヘンのその敷地には、41棟のビルが全てS社のものだったので、唖然としてしまった。しかも通されたビルは、入り口にある一番近い1号館で、しかも最上階であった。そこでEさんと会ったが、その上司も出てきた。2時間話したが、もう一人のP博士がしきりに質問してきた。数々の質問に、不思議だなあと思いながらも何とか対応していった。時間が経って読めてきたが、私は試されていたのだ。

結果はOKだったようで、11月のセミナーに出ることが決まった。テーマは、「トヨタ方式の思想について」だったので、そんなに準備することはないと安気にしていた。しかし、10月末になって急に、意図と違ったテーマが飛び込んできた。紙芝居(トヨタのカンバンのような道具)などの道具の講義だという。最初の話と違うので、あほらしくなりこの講演は断るように連絡してもらった。

担当のEさんは相当ビックリしたようで、すぐに調整したいと連絡があった。日程調整をした結果、10月末の金曜日の午後8時半に、ミュンヘン空港のビルにある会議室に来て欲しいということになった。私はウィーンから、通訳のCさんはベルリンからの移動だった。その時に知ったのだが、他に2社のコンサル会社にも声が掛かっていた。その一人はロンドンから、もう一人はフランクフルトから4人が集結することになったが、国際的だなあ。

結局1時間の会議であったが、自己紹介でTさんが最初に「松田さん」と話しかけてきてから、話はほとんど笑いながらの和やかな雰囲気で終始した。Tさんは、日本の企業でも働いていたことがあり、多少の日本語が出来た。もう一人のWさんも英国のトヨタに勤めていたので、彼も日本語を一部理解できた。実はロンドンから来ていたWさんが、3人のシナリオを書いたことが見えてきた。Wさんの得意なところ、いわば美味しいところを先に食べて、後の2人が残り物を頂くものだった。夜も遅かったので、彼らが口々に言っていることを私が図式に描いて、役割分担の見直しの提案を出した。それまでに穏やかな雰囲気があったので、すんなりと皆さんが受け入れてくれた。結局私の講義内容は、「マネジャーの役割と方針管理」になった。

あとで聞くと参加した後の2人は、欧州の改善関係者は誰もが知っているという月光仮面的なお偉いさんであった。Tさんは、2度ベルリンのAホテルで会ったことを思い出した。この会話をICレコーダーに録音していたが、ほとんど笑い声しか入っていないものだった。いわばライバル同士であり、普通は話しが混乱するが、皆さんが非常に満足した会議になった。問題があった時には、実際に顔を面と合わせる重要性を再確認した。

シナリオ作成は

機関銃の如く入力

その夜は別なホテルに泊まることにしたが、通訳のCさんとセミナーのシナリオの相談を、ホテルのロビーで行った。原稿の締め切りは1週間後で、テキストが10枚のものだった。私は翌日帰国するので夜9時まで時間があった。ホテルと空港のラウンジで、シナリオ原稿を書き上げることを宣言し、明日午後にはインターネットでのやり取りを約束した。宿泊の部屋に入ると電気が点かない部屋(故障)だったが、これが4つ星ホテルかとどっと疲れが出てしまった。通訳のCさんと、入れ替わってもらうことにした。彼は、「すぐに寝るので、部屋を替わりますよ」といってくれたが優しいなあ。

翌朝起きてから、シナリオの流れを検討した。項目をリストアップして、全体の流れを何度も確認しながら全体構成をまとめた。朝食を食べながら、また構成を練り直した。構想がまとめれば、一気に原稿を書き上げる。1万文字を数時間で入力することが出来るこの手先は、まるで機関銃のようだ。入力仕上がった原稿を校正して、すぐにCさんに送信する。1時間もすると、返事が返って来た。一部修正を加えながら、移動したフランクフルト空港のラウンジで、わき目も振らず再度構成を練り直した。飛行機の離陸前にも校正分を送信しておいたが、普段の仕事よりも充実した日になった。

帰国してから閃きがあり、作り上げた原稿をいったんご破算にして、プレゼン用に書き直すことにした。書いた文章を一度シンプルにして、簡単な図をいくつか入れることにして、イラストも描いて送信した。何度かやり取りをしているうちに、段々いいアイデアが出始めた。鉄は熱いうちに打て!は、その通り色々と変幻自在になる。アイデアが、アイデアを生み出す創造的作業の領域になってきた。

これはオムロン時代に、何件も特許を一気に書き上げた時の記憶が戻ってきた感じだった。それは、1件の特許にさらに9件追加して周辺を抑えて、他社が絶対に真似できないようにする方法だった。Cさんの反応も非常に素早く二人のやり取りは、本当に機関銃のようだった。あとから聞いたら、納期を守ったのは私のチームだけだった。内容が非常に良く、シンプルなイラストも今までにないものだとの評価があった。S社からも評判の声が上がり、S社の方から逆に色々な資料の提供も受けることが出来た。当初予定の10枚のプレゼン資料は、セミナー当日には40枚に膨れ上がっていた。後の2人も資料が40から50枚になっていたが、これは偶然の一致か、それともみんな狸だったのか。

当日懐かしい人に再会できた

そのセミナーは、欧州を中心に12カ国からトップクラスのマネジャーが、90人参加した大掛かりなものだった。そのために、会話は全て英語になっていた。セミナーの基調講演のゲストは、S社の人事取締役と以前コンサルしたことのあるT社のZさんの2人だった。Zさんは、11年間ずっと継続して改善に取組んで、素晴らしい成果をプレゼンしてくれた。Zさんは、2から3年にどこかでお逢いする不思議な人で、今回も再開を楽しんだ。今日は、Zさん(オーストリア人)も慣れない英語で話すので、さぞかし辛かっただろう。

さて、いよいよ我々コンサルの出番だが、これはS社独特のやり方だった。90人を一堂に集めるのではなく三組に分けて、1時間ずつ聞いて回るというスタイルだ。当然同じことを3回繰り返し話すことだが、私はコピーのように同じようには言わないようにしてきたので非常に辛いやり方だった。これはカウベルホールで、あの「桂枝雀師匠」に直接聞いて、ヒントを得たやり方であった。同じ台詞のところを笑ってもらったら、今度は別なところで笑ってもらうように、いつも工夫をしているというものだった。実はTさんも同じように、同じ話ができないといったので、大笑いになったのは先日の打ち合わせの時だった。

プレゼンの評価は?

30人のグループが順番にわれわれのブースに回ってくるが、Tさんが工夫をしていたので、すぐに真似ることにした。それは入り口近くの投影機のそばに、名刺を置いておくことだった。効果は抜群であり、瞬く間に名刺がなくなってしまった。1時間テーマと資料に基づいて話を進めていくが、10枚に15分の印をつけておいたので、例え話を盛り込んでも上手く時間通りに出来た。私は今回も意表を付く導入を試みた。幼稚園の保母さんから聞いた手の運動を、いきなり彼らにやらせた。彼らは大笑いしながら、頭では理解していることも、体を実際に使って訓練しないと上手に出来ないことを理解した。マネジメントも机上ではだめで、実際に行動することを示唆した。

最初に緊張を取り、そこでリラックスした時に伝えたい本質を分かりやすくインプットする。そのタイミングは、実体験から直感的に行い、これも訓練次第で上手になる。マネジメントや方針管理なんて頭の痛くなる話だが、これを租借して物語として伝えることで、彼らの心に染み込ませることで評価を下される。講義が終わると、参加者は出口にある掲示板に赤いピンを打ち込むことで、私の講義の評価をするちょっといやらしいやり方だ。これは、ムードチャートといい初めての体験だった。縦軸に上からスマイル顔、普通の顔、への字をした顔と三段階に区分され、横軸には、右端から学ぶべきことが多い、半分、なしのこれも三段階に区分されていた。つまり、図表を3×3の9分割して、右端の上が最も良い評価に位置するようになっていた。3回目には、30人が全てこの位置にピンを刺してくれた。その直後、追加のセミナーの話が舞い込んだ。