海外こぼれ話 松田龍太郎(在デュッセルドルフ/ドイツ)

第108回 2010.5

 

アイスランドの噴火の石が降る

4月16日に訪問先の北ドイツのA社で、光を取り入れるための樹脂製の天窓にパラパラという音が何度もした。気になったので外に出て見ると、数ミリ角の黒い石がいくつも落ちていた。空は雲一つない快晴だったので、空からの落下物が火山によるものとすぐにピンと来た。アイスランドの火山噴火のニュースは、既に話題になっていた。しかもその工場は、飛行機の関連部品を作っているところなので、飛行機が飛ばない理由もすぐに説明をしてくれた。

つまり、火山噴火で吹き上げられた小さな粉塵でも、飛行機に衝突すると穴があく事故になることがまず上げられる。飛行機自体が時速900km近くで飛び、さらに強い偏西風で流れている浮遊物のスピードが加わると時速1000km以上になるから、その衝撃は想像できる。またガラス成分も空気中に漂うことも問題であり、エンジンの中に入ると瞬間的に溶けてしまい、エンジン内にへばりついてしまうことで、エンジンが止まってしまうのである。このガラスのことは、言われて初めて気がついた。肉眼で見ることが出来ないので、快晴の良い天気なのに何故飛行機が飛ばないのか、素人は考えてしまう。飛行機業界では、それは有名なことで常識だとも言う。

このアイスランドは、以前は世界で一番裕福な国の一つだったが、米国のある銀行に騙された形で国家破産をしてしまい、今は最も貧乏な国に成り下がってしまった。どの企業や国家もそうであるように、高慢になるとその鼻先はすぐにへし折られてしまうのが世の常のようだ。

その上に約200年ぶりに火山が大噴火して、大混乱まで引き込んでしまった。昔には幸い飛行機が発明されていなかったので、旅行者には影響は少なかったと思われる。しかし噴火による影響は甚大であり、弱り目に祟り目とはこのようなことだろう。政治の悪さが、国民の生活まで無茶苦茶にしているようで、火山国の日本の政治もそのようなことにならなければと心配してしまう。

火山噴火の影響はあちこちに

この噴火の影響で、ドイツのメルケル首相もアメリカから帰ることが出来なくなった。そのためにスペイン経由を経由して、陸路をバスでドイツに戻ったことが大きなニュースになったほどだ。彼女もイライラしたことだろう。すぐその足で、北ドイツのハノーバーフェアに出かけた。それは世界で一番大きく有名な国際見本市で、開催の挨拶に出席したこともニュースになった。

この影響で飛行機が飛ばなくなり、空港で何日も寝泊りした人たちは踏んだり蹴ったりの思いだったと思う。しかし、危険を冒してまで飛んでも、ポーランドの大統領のように地獄に旅行しては面白くないはずだ。(ドイツ在住のポーランド人は、事故でなく事件と噂している)運が悪かったと思うしか、諦めきれないだろうが、諦めきれない人も数多くいるはずだ。初めての海外旅行が、成田で足止めというのは一生の悪い思い出に刻み込まれる。私の仲間も2人が帰国の日程を余儀なく変更になり、足止めを喰らっていた。中には日本で結婚式を挙げる知人がいて、荷物、引き出物、ウエディング・ドレスなどは既に別便で日本に届けたが、肝心の本人たちが帰国できない状況を聞いた。

セミナー内容を少し紹介

私はセミナーの中で色々と例え話を持ち出して、講義を聴いている人たちに理論にユーモアを組み合せて伝えるようにしている。実はこれがノウハウなのであり、緊張と緩和を組み合せている。その日もA社での講義に、納期を守るテーマになった。例え話は、今回は結婚式を用いた。自分の結婚式は、予定をずらすことはありえないことだという話で口火を切った。

多くの人が会社では納期を守らないのは日常茶飯事が、この日は絶対に約束どおりにしている。皆さんもそうでしょうと問い掛けた。何故ですか?会社のことは他人事と思っているが、結婚式は自分の大切なことだからだと説明を加えた。この日だけは誰もが守るだろうと確認したら、一人が手を揚げて「その初めての結婚式に遅刻をしたことがある」と言い出した。肝心な結婚式に遅刻し、その女性とは縁がないとその時に感じてしまい、やがて離婚してしまったという。

そして今の奥さんと一緒になったが、その時には遅刻をしなかったと話をしてくれた途端に、全員が大笑いになってしまった。しばらく腹痛になったほどの大笑いだった。そのお陰で改善の仲間は非常に良い雰囲気になり、3日目には狙った大きな改善が出来てしまった。明るい雰囲気とは、見えない大きな力を持っていることをまたまた見せてもらった。

北海を眺めての料理を楽しむ

A社から2日目の夕方に、食事に招待された。街の中は壁に耳ありなので、人の余り来ないレストランを案内したいとの申し出があった。別に隠すことはないが、ここは田舎なので噂は一晩で街中の広がることを恐れているのだろうか。彼らの思惑もあるのだろうが、招待なのでどこそこの店とはいう立場にない。ただ美味しい料理があれば文句はない。街中から車で15分のところに、一軒屋の店があり、入り口には1728年創業を看板が付いていた。見ると屋根は何とか茅葺(かやぶき)であった。茅葺は日本だけの専売特許ではなく、ドイツの各地の田舎にまだまだ点在しており、丁寧に手入れが施してある。これも建築法で取り締まられているが、何でも法律を作るのがクセになっているドイツだ。古い家屋は、都度文化財保護の関係部門に申請して認可を得て改造や修理をしなければならなく、その費用も一般の工事よりも高くつくのが欠点だ。

家自体も相当古いことが、窓枠が非常に小さいことで想像が付く。店に入る前に店から道路を挟んだ土手を上がって見るとそこは一面に北海が広がり、目の前には羊や牛の群れが戯れている。対岸はドイツの有数の積出港であり、ここからドイツの製品が世界に輸出されている。大型のクレーンが何台も見える。

この海岸線は非常にゆったりとしていて、散歩コースにもなっており、そのコースは58kmあるという。A社の某社員から聞いたら、息子と一緒に夏に必ず1日掛けて回るという。要所要所に休憩する場所があり、そこでリックサックに入れた簡易バーベキューセットを取り出し、焼肉をするのが恒例になっているという。(ちなみに味付けは塩と胡椒のみ。焼肉のたれは、全く存在しない。日本は、この点色々楽しめるので幸せである)

しかし、親子で毎年58kmの遠足とはけちなドイツ人のやることだが、それを親子のライフワークしている所が素晴らしい。このような些細なことで、家庭内の会話が弾むわけである。ドイツで牧師が未成年に虐待することはあっても、親子間や赤ちゃんを虐待するニュースはまれである。お金を掛けて旅行することも大切かもしれないが、このように「安近短」で家族の絆を深めるドイツの昔からやり方は、今の日本に再考の余地があるはずだ。

食事はせっかくなので、海岸にいた羊をイメージしてランプステーキを頼んだ。ここは海岸に近いということで、魚料理も得意というが、やはり山陰の魚には敵うまい。三つ星出身のコックということで、味を非常に期待した。普通のレストランより、美味く仕上がっていたことは確かであった。前菜や突合せが良く、そして料理が美味いと会話も弾んでくるものだ。

次回の追加日程も頂き、また訪問することになった。夕焼けを見ながらホテルに戻ろうとしたが、その夕焼けは普通の夕焼けとは違っていた。変にどす黒い雲だったが、火山の粉塵が覆いつくしたものだと翌日のニュースでも放送されたという。

田舎のホテルでも4つ星

宿泊先のホテルは田舎にしては珍しい4つ星が付いていたが、大規模のリングスホテルのチェーン店であった。ホテルの受付嬢は、このホテルのご令嬢であるアムケさんだ。前回利用した時に気付かなかったが、これは非常に珍しい名前だ。ドイツでは、聖書に登録してある名前しか付けることが出来ない法律になっている。しかも名字もビープロート(Beeproot:熊の足?)と、それも初めて聞く名前だった。

ドイツではない名前と名字なので、もしかしてオランダからの移住者か、デンマークかと考えてしまう。アムケさんは、ちょっとダイアナ妃に似ている雰囲気がある。以前も写真を撮らしてもらったが、今度もまた写真に撮りたいと申し出たら、疲れているので明日にして欲しいという乙女心に納得した。

彼女がセットしてくれた部屋は、スイートルームで、普通2030uが6070uで、しかもベランダ付き、テレビは2台、部屋は3つ、コストは以前と同じだった。何故か問いただすと、いつもお世話になっているのでサービスだという。広過ぎで逆に落ち着かないが、アパートだと思えば気にならなくなった。

翌日にはちょうど彼女の友達が来ていたので、一緒の写真を撮らしてもらった。港町に近いので、色々な人が混血になったので美人が多いという。北ドイツは美人が多いというが、キーワードは混血、金髪、港町だろう。有名なのは北ドイツの港町のハンブルクであり、関税をなくして膨大な貿易益を生み出しているので、各地から人が流れ込むのだろう。

しかしこの街は寂れていて、なんとこの10年で3万5千人が2万5千人と一気に人口が減少してしまたようだ。今時は夕刻が9時になっているので、街の中をくまなく歩いてみた。そうすると、イタリア料理店は5軒、ギリシャ料理店は2軒、中華料理店は1軒、映画館が1軒、そして駅舎は無人になっていた。過疎化が日本と同様に、加速して進んでいるようだ。

車での1,900kmの日帰り出張

そのA社の改善担当の一人が、3日目に出張しなければならないと申し出てきた。北ドイツのノーデンハムからドイツ最南端の町フレドリッヒサーフィン(飛行船のツェッペリンで有名な街)まで、950kmを一人で運転して日帰り出張するという。日本では社用車だが、彼は自分の車だといい、しかも16年前のVW社のゴルフだという。なんと翌朝4時に出発して、10時の会議に間に合わせるためには、朝一番の飛行機では間に合わないのでどうしても車で行くという。往復で1,900kmだが、まるでトラック野郎のようだ。彼の車を覗いたら、いたってシンプルでカセットが付いているくらいだった。CDはなく、子供が散らかしたゴミが乗っているくらいだ。幸いにもライターらしきものが、なかったので安堵した。それにしても走行平均速度が、時速160kmは脅威である。

一気に移動する手段であるアウトバーンの良さが、一際引き立つ。しかも全線無料であり料金所は全くないので、停止しないでインターチェンジが円滑に出来る。このようなアウトバーン構想と国民車(フォルクス・ワーゲン)を考えたヒットラーは、その点だけは偉大である。日本は高速道路を無料にするといって何十年にもなるが、これも官僚と政治の悪さかそれとも決断力のなさか。

彼に前泊しないのかと聞くのは、野暮なことだ。こちらの人は余程のことでないと前泊しないのは、出来るだけ家族との時間を共有することを第一にしているからだろう。また、宗教上や生活習慣の違いもあるだろう。

われわれ日本人は、前日に電車や飛行機などで移動する前泊主義だ。私のように家族を日本において、海外で仕事をすることも彼らに取っては疑問に思うのが常だ。「でも毎月日本に帰っています」というと、ホッとしたように表情を緩める。気兼ねなく海外に出ることが出来るのは、家族の理解や協力がなければ出来ない商売である。

南ドイツの田舎のシュヴァイゲルン

次の訪問先は、今回から新規にコンサルするWS社である。南ドイツであったが、飛行機が飛ばないので、時間を掛けて電車での移動になる。ハイブロンという終点駅から、さらにタクシーで15分のところにあった。そこまで道中は、ブドウの段々畑で、全て石で積み上げられていた。よくもこんな急な坂道で機械を使わないで、ブドウを収穫するものだと感心してしまう。

途中ブラッケンハイムまであと9kmという道路表示があり、ビックリした。そこは4年前から訪問している印刷会社W社の近くで、しかもドイツで一番の赤ワインの生産地で有名な場所であった。ブラッケンハイムは、(西)ドイツ初代大統領のテオドール・ハイス氏の出身地で、1万人の小さな街であるが、この大統領のお陰で有名になっている。ここの印刷会社はいつも帰りにはお土産として、赤と白のワインを頂いているなんとも有難いところであった。

その近く南に9km、シュヴァインゲルンという目的地があった。そこは小さな町ではなく村である。泊まったホテルは、古い建物であった。ホテルの名前は、「ツム・アルテン・レンタント」といい、2つの家が合体しているようであった。その中間の廊下の上には、1782 年の刻印が施してあった。ホテルの周囲を見渡すと、城のような建造物、大きな時計が設置されている建物があり、目の前にある緑色の建物は、市庁舎であった。すぐ隣に市教会もあった。村でも村役場といわずに市庁舎という。

つまり、村の中心にホテルがあったわけだ。よく聞いてみると、このホテルは元々旧市街の歴史財務管理局であったところを、改造してホテルにしたものだった。だからホテル内は、変なところに段差や曲がり角があった。インターネットで調べてみると、こんな田舎でも日本語版での紹介がでていたのはビックリした。暗くなるまで時間があったので散歩をしたが、南ドイツの典型的な保守的な性格が至る所に出ていた。古い物をとにかく大切にして、いつまでも使おうする精神は、日本人も見習う点もありそうだ。

そのホテルはまるで古い博物館

そのホテルのオーナーは、70歳くらいであった。日曜日の夕方に辿り着いたので、別棟の自宅から鍵を開けてくれた。田舎のホテルは、このように夜間になると別棟に引き上げたり、全く別な所に帰ってしまったり、ホテルには客だけしかいないという日本では考えられないやり方である。田舎なので、防犯上問題ではないかとか、消防法は効力がないのであろうか疑問になってしまう。日曜日の田舎のホテルでは、その夜は管理人もいなく、私と通訳だけというのはごく自然のことで、日本では絶対に考えられない。しかも張り紙がドアに貼られており、鍵は花壇の中とか絨毯の下にあるなどとあるが、泥棒が見つけたら事件になる。しかしそこは田舎であり、事件は存在しないのだ。

オーナーは、ゲッチンゲン大学出身で、化学部門のノーベル賞を受賞したOtto Hahn教授とは大学で、気さくにコーヒーを飲んだり話しをしたりしたそうだ。オーナーは数学、経済学と学んだが、ホテル業をしたくて地元に戻ってきたという。このホテルでも最近インターネットを接続し、無料で開放して使うことが出来るようにしたというが、ありがたい。このゲッチンゲン市は、コンサルを始めた時に何度も通った会社があったので懐かしく思った。

ホテル内のアイテムは非常に古い物が至る所に置いてあり、まるでオブジェのようだ。写真を撮っても様になる。部屋のドアの取っ手が非常に変わっていて、木で出来ており、カンヌキのようになっていた。部屋も古い造りになっており、落ち着いてくつろぐことが出来る。また、水周りは最新式に整備されて綺麗に仕上がっていた。この手のホテルは、保守的な性格である南ドイツに多くある。現代的なデザインで施された室内では、落ち着いて寝ることが出来ないので、嬉しいことだ。

日曜日と月曜日は、ホテルのレストランはお休みということで、ホテルを出てイタリアレストランを探すことにした。数十m歩けば、市場がある広場に出る。ドイツでは、小さな町でもイタリアと中華のレストランはある。さらに匂いセンサーを働かせると、店はすぐに見つかった。店の看板(値段)の様子を伺い中に入る。大抵客が何組かいれば、美味しい店と分かる。ウエイトレスもイタリア人であり、味は想定内にチキンと収まった。