海外こぼれ話 松田龍太郎(在デュッセルドルフ/ドイツ)

連載113   2010.11.

 

タクシーのメーターは90万km

ハングルク空港からお客様(F社)の近くのホテルは、タクシーで45分掛かる場所にある。ほとんど場合その地方のタクシー会社には年間契約でお願いしている。その理由は、契約にしてもちろん安くすることと安心して任せることがある。さらに毎回財布からお金を出して、領収書をもらう手間も省けることが大きな利点になっている。45分で1万円以上になり、さらに工場とホテルの往来に何度もお金を払っていると銀行からの借り入れも増えるだけだ。また財布がパンパンになるほど領収書で一杯になるので、この仕組みは有難い。

空港での到着ゲートには、運転手がプラカードをもって待ってわれわれを探そうとしている。大きなタクシー会社だと運転手が替わることがあり、このプラカードが命綱だ。今回の運転手は、70歳を越えたおじいさんだった。黄淡色に塗装されたベンツのバンは、見た目にもガタガタだった。後部座席にいつも座り、通訳は助手席に座ってもらう。通訳は私以上に疲れることが多いので、ゆっくりしてもらうことと、運転手と話をしてもらうためである。後部座席からハンドルの先のメーターを覗き込んだら、なんと走行距離が8970504kmになっていた。見間違いかと思って確認してみると、年末までには90万kmになるだろうと運転手は笑っていた。こんなに走っているタクシーに乗ったことがないというと、多分そうだろうと運転手も自慢げに答える。

この運転手は週末だけのパートであり、年は76歳という。ベルリンではタクシー会社を経営していたこともあったが、リタイアしてこの町で余生を過ごしている。このベンツはまた10年にはなっていないがかなりガタがきているので、普通は夜に使うというが、今日はまだお天等様はまだ高く明るい。しかしまだ3直でこの車を使っているというのは矛盾するが、まだまだ走れるということだ。以前55万km走った時には、ベンツ社から記念の腕時計がプレゼントされたという。ベンツのディーゼルエンジンの車は本当にタフであり、数年前まではタクシーといえばベンツのディーゼルエンジンだった。現在は色々な車がタクシーとして使われている。なかにはMAZDAや三菱もあるが時代は変化している。

 

30年以上前のオールドタイマーが走る

 

町を走っているとオールドタイマーといわれる製造後30年以上経った車をいうが、向こうから茶色の見かけない車が来た。なんとそれはベンツの1950年代後半に製造された車でトヨタが初めて乗用車を作ったものとそっくりだった。この運転手はすぐにこの車がいつ頃作られたかを解説してくれるが、ドイツ人は本当に車が大好きだ。さらにオペルなどオールドタイマーをナンバープレートに表す「H」のついた車が次々と目に飛び込んでくる。土日曜日の天気良い日は、このような古い車をガレージから引っ張り出して乗り回すことが楽しみになっているが、見ている方も楽しくなる。しかし古い物をいつまでも大切にすることは、少し考えてみても良いだろう。ホテルに行くまでに5台も確認した。

結局このタクシー会社が、3日間送り迎えをしてくれた。どういうわけか3人の運転手は皆70歳以上の老人であったが、多分コストダウンが狙いだろう。しかし運転は実にゆったりと時間通りに走ってくれた。次の日も随分と走り込んだベンツであり、メーターを見ると44万kmになっていた。3日目の最後に再び空港まで送迎してくれたベンツは、特別あしらいのリムジンで中央に余分な座席を設けて長くしたものだったが、これも本当に古かった。でも少しリッチになった気分だった。もちろん運転手は、70歳以上のベテランだった。ドイツの定年は、日本の60歳ではなく現在は65歳であり、もうすぐ67歳になるのは、年金の確保のためでありキチンと将来の戦略ができている。

 

ドイツの車事情

 

ちなみにドイツで車の免許証を取るには、当然教習所に行って練習する必要があり試験も当然行われる。だがこの試験に3回失敗すると、永久に免許が取れない仕組みなっているのは少し厳しいことか。面白いことにその時取得した免許証は一生もので書き換えはないので、通訳のその写真を見るといつまでもうら若い学生時代のものだ。レンタカーを借りる時にいつも見ているが、腹の中では全然違う顔なので大笑いしている。日本は書き換えと称して、写真代、用紙代、免許センターの人件費などに消えているかと思うと、どこに書き換えの必要性が大いにあるのか疑問になるほどだ。写真は古くなっても耳の形は変わらない(人は耳の整形は滅多にしない)ので、免許証やパスポートは耳を片側必ず写真に収まるようになっているのは感心させられる。

アウトバーンには速度制限がないと思われるが、実は一部速度制限がある。それは民家の近くになると100kmなどと制限が表示されている。問題はアウトバーンではなく一般道である。時に街中に入ると、3050kmなどに一気に制限させる。アウトバーンでいい調子なってそのまま市街地で走るとねずみ取りに捕まる。捕まるというより、カメラで撮影されて後で請求書が送付される。

良い点は日本のように車を買う時に車庫証明が不要なことで、駐車禁止以外の道路の路肩に止めて置けばよい。ここは私のものという制限もなく、とにかく空いていればそこが自分の駐車場になる。つまり青空天井であり、雨や風そして雪にさらされる。また路上あらしにあうことも覚悟が必要だ。どうしても車を守りたければ、ガレージを確保することになる。私はドイツでは車をもたず絶対に運転をしないようにしている。毎月日本に戻るので、車の走る道路の方向が右と左が反対なので混乱してしまう。過去に日本に戻ったときに、正面から車が来るのでびっくりしたが、右側を正々堂々と私が走っていたのだ。危うく事故を仕掛けたところであった。それ以来ドイツで運転することは考えなくなった。でもレンタカーの時には助手席つまり右側に乗るので、いつの間にか、自分で運転している錯覚を起こすこともあるので気をつけたい。

 

改善に食堂の女性も参加

 

毎月通っている南ドイツのS工場は大きな工場なので、専用の食堂が整備されていて、会議室のコーヒーサービスやパンの販売なども行っている。小さい工場では、昼食にはロールパンといって丸いパンを半分に輪切りして、その上にバターを塗りハムやチーズなどをのせたものが一般的だ。でも工場が大きくなると、福祉厚生のために食堂が設けられる。昼食はいつも利用させてもらっている。大体2種類のメインメニューがあり、さらにスープ、バイキングのサラダ、デザート、飲み物(味噌汁がないので、水、ジュースの類)、さらにはアイスクリームも冷蔵庫から自由に選ぶことができるが、少しお金は必要だ。

今回の改善のワークショップに、見たことがあるがどこの職場か思い出すことができなかった中年女性が正面にいた。夕方の全員からのフィードバックで、「私は、食堂から来ました。」と挨拶がありびっくりした。食堂の制服は頭から足先まで真っ白であり、今回は工場の作業服に着替えられていたので、まったく思い出すことができなかった。どこかで出会い毎回逢っている人であったが、衣装が違うと別人に見えてしまうようだ。食堂の人たちとも顔馴染みになってきたが、カウンターの内と外では別人になる。彼女曰く、工場内の仕事はまったくわからなかったと話をされたが、2日目にはメンバーと現場で堂々とやり取りをされていた。何故彼女が改善に参加したかといえば、人事部長の希望であった。この食堂は近々に2人の退職者が予定されており、これを機会に食堂も少ない人員でそのままのサービスができないかと検討するためであった。

このようなことを聞いたので2日目の講義は、食堂や台所の実例やスーパーマーケットの事例を交えながら行い、工場と食堂の改善の根っこは一緒であることを伝えた。食堂の従業員も一緒になってワークショップをしたのは初めてであったが、改善が製造現場に留まらないことを示した好事例になる。さらに2人も制服が違うので訊ねて見ると、補材を納入している外部業者の人であった。毎日工場内に補充をしているが、もっと仕掛を少なくしながら欠品を発生させない仕組み作りに一緒に参加されたものだった。工場のメンバーと一緒に笑顔で改善をされた様子も見ることができた。目標は在庫を半分以下にすることだが、外部業者もそれができるようになると、ノウハウが得られてライバル会社との競争が優位になっていくので非常に協力的だった。

 

組合が全員初めてセミナーに参加

 

この工場は今年から訪問するようになった。色々な工場に行くが問題になるのが、強い組合からの導入反対である。日本と違いこちらの組合は、会社との共存はあまり考えていない。自分たちのイデオロギーを貫き通せるかに重点が置かれ、会社が潰れても構わない姿勢がある。それは会社単位ではなく、金属、車などの業界単位なこともあり、会社が潰れても他の会社に行けばよいと思っている。考えられない話だが、日本の話をしても所違えば関係ないで終わる。

このために導入時点から組合を積極的に巻き込み、われわれが何をしようとしているかを包み隠さずすべてオープンにして理解を求めるようにしている。ワークショップにも参加してもらい、具体的にはどうするかも紹介しながら疑問をもたれないように心がけている。7月にトップと幹部マネジャー(部長クラス)を全員集めて、もっと自分の仕事をしなさいと発破を仕掛けるマネジャー専用のセミナーを開催した。改善の反対派は、日本もドイツもそのほかの国も一緒なのは面白い現象でもある。これもマーフィーの法則になるかな?

トップの反応は非常に良いと、何度も親指を立てて評価をしてもらった。そこに組合代表の女性がいた。彼女も非常に感動したとすぐに私の所に来て、この話を組合幹部全員に聞かせたいと申し出があった。実は副組合長がこれだけ成果が見えても、従業員も賛成してきているのにまだ疑っているという。彼女は最初のワークショップに参加して、これしかないというまでほれ込んだという。彼女の説得で、今回15人の組合代表に話をする機会を得た。

今までに組合だけのためにセミナーを行ったことはなかったので、本当に初めてのセミナーになった。たまたま前日は食堂でこの女性と副組合長が食事をしていたので、その席に座り話し込んだ。彼はまだ疑問をもっているので、認知まだしないとまでいわれた。さらに質問してもよいかというので、40分の時間を取って疑問が晴れるまでお話しましょうと伝えた。事前にドイツの組合の構成、考え方、重要な法律などを調査しておいた。しかし本質は人間性尊重、人間の潜在能力や才能を如何に引き出し発揮させ、社員や会社がこれからも生き残り、そして勝ち残っていくにはどうすべきかの話である。原稿を前日に通訳と修正を重ねた。全員を知恵のある労働者に仕立て上げるかが狙いである。

 

組合への説明は非常に良い評価だった

 

翌日朝一番で改善メンバーのためのセミナーを1時間ほど行って、9時からいよいよ組合メンバーへのセミナーだ。時間には皆さんが集まり、挨拶を交わすと数人が今までにワークショップに参加していたことが見えた。組合長も最初に参加していたこと思い出した。50分はこちらからまず説明し、その後40分を質疑応答に時間した。今回は事前に用意したパワーポイントの資料30枚であったので、1枚に約2分を充当すれば収まることを頭に入れておく。時間配分が良くないと後の重要なことが説明できなくなるので、そのことでも疑いをもたれる可能性もある。幸いにパソコンの右下に時刻表示されるので、それを目安にすればよい。

打ち合わせ通りはいつものごとく行くわけがないが、今回はそこそこのペースで順調に説明が進んでいく。前日途中に質問をするけどそれでもよいかと訊ねられたが、いつでもどうぞと余裕を見せておいたが、最後まで途中の質問はなかった。話の前半戦に何故この改善に取り組むのかという思想・哲学をじっくり話したが、予定時間をオーバーしそうだったので、「残念ですが、今日は3つだけに割愛します」といい、次に進めた。結局8分オーバーしてしまったが、彼らからはなんと拍手が沸きあがったのだった。これは予想外の出来事だった。

8分オーバーしたが、その分時間をずらして40分はそのまま実質疑応答の宣言をした。厳しい批判の質問が来ることを想定していたが、まったく反対の意見や質問であり建設的なものだった。セミナーが終わった時の参加者の目は、随分と穏やかになっていたのは、説明に納得されたからだっただろう。逆にお互いに良くして行くにはということで、大きく2つの提案があり、これをコンサルからも会社側にも投げ掛けて欲しいと以外なものになった。

質問時間は大幅にオーバーしてしまったが、納得のいくまですべての参加者がそれぞれ質問され、それにすべて丁寧にお答えした。最後は副組合長からもっと思想・哲学の話を聞きたいので、またセミナーをしてくれるかと要望まで出た。何度でもやりましょうと回答したら、立ち上がって握手までしてくれたが、その握手はしっかりとした力が入っていた。目も本当に穏やかになっておられた。これでホッとしたが、これも通訳とのチームワークのお陰だ。

その後の昼食の時に、彼女がわれわれのテーブルを見つけてこられ、特に副組合長が感動しておられたとわざわざ報告にこられた。人を感動するには、感情もあるが少し理論も必要かと思った。その日の午後には、工場長が駆けつけてこられて、どうだったと組合の反応を訊ねられた。ありのままを伝えたが、工場長も非常に満足をしておられた。この信頼関係がコンサルには重要である。その夜は通訳にワインをご馳走したが、格別に美味いワインになった。

 

日本からの訪問者

 

私が大のワイン好きは狭い範囲であるが、有名な話になっている。既に26年間で3000本を越えるワインをお腹にしたためた形跡が立派に残っている。同じ琴浦町八橋出身で、幼稚園からの同級生のMさんが、嫁いで大山町で酒屋を営んでいる。数年前からMさんが、オーガニックワインを取り扱い始めたという。それを多くの人に伝えたい希望があり、食事と一緒に楽しめないかと希望もあり相談を持ち込まれた。そして浦安駅前に料理の美味い拘りの喫茶店Hがあり、希望を伝えるとすぐに快諾してもらった。嗚呼!もつべきは友であるなあ。

ここで目出度くワインと料理の合体が成立した。そのワインの会に毎回固定して参加するのは、私と家内とMさんとMさんの実家のお父さんでの4人だけで、後は毎回メンバーが数人から10人ほどが入れ替わる。時にはフルートの生演奏もあり皆さんが聞きほれながら、また毎回メニューの違う料理(毎回メモされ同じ物が出ないように配慮)が提供されて、ワインを何本も空けてしまう。なんといっても愉快で楽しい話が最高のつまみなる。3から4時間があっという間に過ぎてしまうほどだ。Mさんの友達のUさんが参加された。

きっかけは、私がデュッセルドルフに住んでいることだった。なんとUさんの娘さんが数年前からデュッセルドルフに在住して、今度第二子の出産があるのでまた訪独されるという。しかもUさんの住所は、わが母校米子高専の近くという。娘さんは、縁があって岡山に本社のある工作機械会社に勤務のご主人に嫁がれた。しばらくしてデュッセルドルフに転勤にされたというが、もう6年も前のことだった。Uさんは第一子のお産の時、3年前にもデュッセルドルフに来られて、散歩の途中にあのわが台所の「やばせ」にお出でになりマスターとも話をされたという。何だいなあ!そげか?とすぐに米子弁に戻って話はどんどん花が満開のように開いた。なんとも世の中は狭いものである。

8月末にUさんは、デュッセルドルフにお出でになった。しかし予定日の出産を待ったがまだその気配がないということで、アパート近くのインマーマン通りの「ホテル・ニッコー」でお茶することにした。お土産にはアパートの1階にあるギリシャの喫茶店のケーキにして、待ち合わせした。すると予定日を過ぎた娘さんと3歳のお孫さんも一緒だったので、お土産は正解だった。近くにあるが(真下にある)この店には7年半で3回しか入ったことがなく、甘いものにまったく興味がなかったが、これからは少し甘いものの知識も持ち合わせる必要を感じた。話の時間があっという間に過ぎてしまった。楽しい時間はすぐに去ってしまうものだ。予定日より数日遅れて、予測通りの第二子は女の子で、なんと3600gもある大きな赤ちゃんでした。おめでとうございます♪