海外こぼれ話 松田龍太郎(在デュッセルドルフ/ドイツ)

連載114    2010.12

金の秋とは?

欧州は10月になると朝の気温は数度にグッと下がり、日中でも十度前後の日が多く、結局今年は暑い欧州の夏を体験することがほとんどなかった。逆に今年は日本に電話を掛けるたびに9月や10月になっても、異常気象で「暑い暑い!」という悲鳴が聞かれた。ロシアでは日本と同じように猛暑というより酷暑の夏になり、さらに世界中が異常気象に覆われてしまった。エネルギー不滅の法則から見ると、どこかが暑いとどこかが寒いのである。それでも自然のリズムはしっかり時を刻んでいる。日本でいえば彼岸に咲く彼岸花で、ドイツといえば枯葉の10月である。通訳のLさんとは今年初めての仕事になったが、そのLさんがこの枯葉の季節を、「金の秋」とか「金の10月」と呼ぶことを紹介してくれた。こんな素敵な表現が、ドイツにあったのかと妙に感動してしまった。枯葉を愛でるような国民ではないと勝手に想像していたが、とんでもない間違いであった。このような表現をこの11年間聞いたことがなかったのは、逆に不思議なくらいだ。枯葉は赤ではなく、黄色を主体とした茶色系がほとんどだ。ドイツの紅葉は、野ブドウやツタの部類に見るくらいしができない。

ドイツの国旗は、上から黒、真ん中が赤、下が黄色に見えるが正式には金である。その色の意味としては、1813年のナポレオン戦争時代のルードヴィヒ・リュッツオウが率いる義勇軍の軍服、黒地に赤の襟、金のボタンをシンボルカラーにしたのが由来といわれている。また、神聖ローマ帝国の紋章(金地に赤のくちばしと爪をもった黒い鷲)に由来する説もある。さらに黒は勤勉、赤は情熱、金は名誉を表すともいわれるが、黒は大地、赤は血なので人を表し、そして金は繁栄を表したともある通訳は語っていた。なるほど、どれもこれもそのとおりという感じがする。日本では赤い葉である紅葉が多くみられるが、これは世界的にも珍しい枯葉の色のようだ。明確な四季の変化、温度差、適当な湿度など微妙な条件が必要らしいが、海外に出て初めてわかることもある。

10月になったら案の上郊外から枯葉が舞い散り、地面に黄色のじゅうたんのように敷き詰められる。この黄色が太陽光の加減によっては金のように光り輝く。ドイツ人が実はこの季節を好きらしいのは、この表現を聞いてピンときた。日本では黄色の枯葉の代表格は、イチョウである。ドイツの枯葉の代表格は、菩提樹のようだ。木の高さは十数mにもなり、大きいものは幹の太さが直径1mもある。仏陀もこの菩提樹の下で悟りを開かれたというが、人も動物も包み込む大きさを持っている巨木だ。日本の木といえば桜で、ドイツの木の代表はこの菩提樹だろう。日本では太陽光がある時間になると、海面に乱反射して「銀波」と呼ばれる現象が見られるが、やはり銀よりも金の方が気持ち良いのは誰でも一緒だろう。

 

今度のチェコの通訳は司鼓良さん

 

今年はチェコに何度も通う機会があった。当初の通訳はプラハ市内にある某大学の教授に依頼していたが、多忙のためにいつも代わりの人が来ていた。ようやく今回、本命の通訳である司鼓良さんに会うこととなった。彼の名前を漢字で表現すると、司鼓良さんという。その読み方はスイコラとかシーコラとも読めるが、チェコ独特の発音なのでカタカナでは表現しにくい。チェコ語は世界でも最も難しい発音に属しているらしい。その証拠にアルファベットの上に、柔らかく発音する記号や語尾を延ばす記号が付いている。名前の訳は、鳥の四十雀(シジュウカラ)の意味である。プラハ市内の店の看板にもその名前が見られたが、チェコでは一般的なお名前のようだ。

お歳を伺ったら1961年生まれという紹介ではなく、昭和36年生まれといわれた。日本通なことが良くわかる(ちなみに私は、昭和28歳と表現している)。日本との関わりのきっかけは、20年前の1990年に来日して九州の佐賀大学に留学されたことだ。私も何度も行った武雄温泉(※佐賀県にある温泉)の旅館のことも良くご存知だったが、それは当たり前のことか。当初はやはり九州の方言には相当悩まれたそうだが、それでも今では九州弁も流暢にお話される。何故このような日本語の名前を付けられた理由をお尋ねすると、当時は何をするにしてもサインではなく、すべての書類には印鑑が必要であったというのだ。

今ではサインでもOKになることが多くなったが、20年前には印鑑でないと何もできなかったそうだ。私たち日本人は生まれたときから印鑑が必要である(なことであった)が、海外から来られた人にとって日本で暮らすことはまず印鑑が必要だったというのだ。当たり前が当たり前ではないことがわかる。印鑑作成にあたりご自分の名前の当て字を探されたようだが、この司鼓良さんの文字の意味について説明をしてもらった。ただの当て字ではなかった。「鼓」は、太鼓の意味であるが、これに「司」つけて「司鼓」になると、天皇が大切なことを申し渡される時に太鼓を鳴らされたという意味であった。そして「ラ」は「良い」の当て字とされたという。彼の専門は近代(江戸時代)からの日本経済で、話をしていても私以上に良くご存知であるが、やはり偉い学者であった。ちなみに京劇では、「司鼓」は西洋音楽の指揮者に相当する意味であった。

 

チェコは小学年生から外国語を習う

 

初めて通訳をしてもらう時には、事前に関係資料をメールで送信しておくので、およそのニュアンスをつかんでもらうようにしている。今までチェコでのやり取りは、すべて通訳が司鼓良さんの教え子だったので、まったく問題はなかった。むしろ彼らの先生が直々に翻訳してくださるので、それ以上の期待を持ってもよかった。あとでドイツ人の通訳に聞いたら、司鼓良さんに逢ったことはないが、噂では天才的な通訳だと通訳仲間でも囁かれている有名な人であった。チェコ大統領と会見をした当時の小泉首相の通訳をしたといわれるので、超一流の通訳であることは間違いない。このような優秀な人に通訳をしてもらってよいか、おこがましいくらいだが幸運であると思った方がよいだろう。初めてのやり取りであったが、倉吉弁もまったく問題はなかった。私と同行したドイツ人とのやり取りは英語であり、私には日本語、そして現地の人にはチェコ語と、大変忙しいのに良く頭が回転するかと思うほど感心してしまう。

チェコの小学校は2年生から外国語を習い始め、話ができるように訓練される。そして高学年になるともう一つの外国語を習い、普通の人でも3カ国語が話せるという。日本の外国語の習得レベルは、まったくお粗末なことがわかる。書くことや読むことはできるが、会話ができないのは実際に使わないという学習方法にあるようだ。日本の某会社が、日本語ではなく英語を使うことにしたというニュースがあったが、世界を相手にしていくにはブロークンでも良いから英語が必要だ。でもドイツに長くいると、英語よりもゼスチャーの方が良く通じるような気がする。いつもながら通訳の頭の構造に感心させられることばかりだが、だから商売が成り立つのだ。

 

味覚を決めるのは二歳まで

 

司鼓良さんは料理にも興味をもっていて、自分でも料理をされるという。日本から納豆の菌を持ち帰り、その菌を使ってチェコでしかも自分で納豆を自家用に生産されているというのでたまげてしまった。日本ではワラに包んで発酵させれば自分でも作れるが、チェコには納豆菌が存在しない。その菌は少しでもあれば納豆ができるというが、その持ち帰られた菌の量はなんと1トンも納豆を生産できるくらいあるので一生分は納豆に困らないという。日本人以上に日本人な外国人というのは、もしかして彼のことかもしれない。

プラハ市内には日本の食材がある程度あるのは以前から聞いていたが、それを基に地元の食材もアレンジしながら毎日の食卓を賑わせているという。感心なお父さんでもある。私もデュッセルドルフのアパートでは完全な自炊であるが、それは男の料理であってワインやビールのお友達としての料理にしか過ぎない。日本に帰ると台所は家内の神聖な場所なので、立ち入ることはできないといって料理をしないようにしている。料理をすると味付けのことで何かといわれるのは想像できるので、極力やらないようにしている。でも見かけによらず、私は後片付けや食器洗いや掃除は得意である。人には役割分担があるのだ。

人の舌が感じる味覚について面白いことを聞いた。三つ子の魂百までもという諺があるが、司鼓良さんの双子のお子さんが日本で生まれて育った時に、和食で育ったのでその和食の味が染み付いてしまったようだ。4年間過ごした後チェコに帰られた時に、司鼓良さんのご両親つまりお祖父ちゃんとお祖母ちゃんが喜んでチェコ独特の料理やお菓子で歓待された。しかし、子供たちは不味いといってまったく反応しなかったという。和食に慣れてしまったので、初めて食べるチェコの味覚を受け付けなかったのだ。舌の味覚は二歳で決まってしまうようで、環境の大切さがまたわかったような気がした。

 

チェコからの移動は8時間半

 

チェコのその工場は、東の方にあったでの西の方にある首都のプラハとは車で3時間も掛かる。次の訪問先はドイツの西の端にある工場である。移動のために工場からプラハに向かったが、プラハ市内に入ってから空港に着くまでが大変だった。夕方のラッシュにかち合い、市内をすり抜けるのに1時間も掛かってしまった。たまたま事故があったらしく救急車も走っていたので余計に停滞があった。あるTの字交差点では、青信号の時間はわずか5秒間しかなく車は3台ずつしか流れない。こんな短い信号は初めてだったが、その分赤信号は30秒と非常に長く非常にイライラした。しかし、車の中では身動きできない。

飛行機の出発1時間前にはチェックインしないと座席を確保できなくなり、デュッセルドルフ空港に着けない。渋滞の連続だったが、出発の1時間前に到着した。運転をしてくれたドイツ工場の改善担当のFさんは、それからドイツに車で移動したので、非常に疲れたそうだ。翌週にまたFさんの担当している別な工場に訪問した時に、あの翌日には風邪をひきダウンしてしまったことを聞いた。Fさんは、当日ドイツに車で移動したので、彼も8時間以上運転していた。当然疲れも出るが、ドイツ人は何時間も運転するタフマンばかりである。

ぎりぎりでチェックインしてレストランに入って晩御飯を食べようとしたが、店は非常に忙しかったので、結局注文することができなかった。悪いことは重なるもので、何も食べることができなかった。予定通りにデュッセルドルフ空港に着いたが、頼んでおいたタクシーが来ておらず探しまくった。電話を掛けたら、前回と違うところで待っているというので、また頭に来てしまった。そこからまた移動して結局ホテルに着いたのは、23時半だった。仕事を終えてからほとんど座ったままで8時間半も移動すると本当に疲れる。その後に疲れから喉をやられてしまった。

 

邪気は払うにはやはりワインが良い

 

悪いことはさらに続く。次に訪問した工場では、事前の連絡の内容と状況がまったく異なっていたことが判明した。急きょその場で通訳のLさんとアレンジして対応したが、ここでまた疲れがドッと出てしまった。三隣亡と仏滅がいっぺんに来たようだ。通訳と気力を振り絞り対応して事なきを得たが、移動の疲れと情報の不備で一気に疲れが倍増してしまった。そこで、アパートに帰る途中に行き着けのワイン屋で、ワインを購入して栄養補給に努め、通訳にお礼としてワインを進呈した。このLさんは元ロック歌手であり、そのために歌心が非常にあるのでアドリブが堪能な人だ。こっちのリズムに上手く合わせて通訳をしてもらうので、話をしていても次々と新しい話のアイデアが出てくる。その彼も通訳をやりながらチュービンゲン大学で今も教壇に立っていて、以前は博士を目指していたという優秀な人である。

そのワインで邪気を払うために、週末にワイン好きの友人を誘ってアパートで半年振りに飲み会をした。前菜はチーズの盛り合わせである。モッツアレアチーズには、トマトの皮を湯剥きし、スライスしてバルサミコ酢をかける。さらにアオカビチーズ、そしてカマンベールチーズは電子レンジで20秒ほどチンをして、中身を少し溶かす(温めると美味くなる)。それに赤、黄、緑色のパプリカをスライスしスティック状にして、溶けたチーズに絡ませる。ちょっとした手間が料理を変えることができるが、人もちょっとした気心を持つだけでもガラリとかわるので、料理も人もちょっとした手間がミソのようだ。

メインは倉吉から持参した椎茸115号(俗にいうドンコ、115g、コンソメスープに一晩漬けると150gにもなり、冷蔵庫に入れておくと旨みが8倍以上になる仕掛けが潜んでいる)のステーキだ。たっぷりのバターで両面を3分ずつ焼きあげる。これにニンジンのグラッセを添える。これは電子レンジで、わずか2分でできる超簡単な料理だ。さらに日本から持参した魚肉ソーセージを使った野菜炒めも登場させる。好評だったのは、期待外れの椎茸の出し汁で作った高野豆腐の煮物であった。何のことはないぐうたらおっさんの手抜き料理ばかりである。邪気を払うには、やはり殺菌効果抜群のアルコールが良いらしい。

 

クビにしたい上司に苦慮

 

ある工場の製造部長が改善に大反対をしている。その理由が子供じみたものであり落胆した。10年以上自分が担当していた現場が何も変わらなかったにも拘らず、改善チームが取り掛かったら、半年で大幅な改善ができてしまったことに反発しているのだ。素直になれば良いのだが、変なプライドは持っているので始末に終えない。あの手この手で説得したが、一向に自分を変えようとしないばかりか、部下のやる気を削ぐようなことまでやり始めた。しかもいじけている姿は本当に幼児のようだ。このように自分だけなら良いが、部下にまで毒を流すことは、絶対に上司として許されるべきものではない。今までに何度も説得をしたが、彼は一向に考え直す気はなく逆にますます反発し始めていた。

過去にもこのように毒を撒き散らす上司を、数人ほどオーナーやトップに頼んで実際にクビにしてもらった。それを見て恐れをなしてしまう上司を何人も見てきたが、これは効果がある。その人の人生を狂わせてしまうが、もっと大切な人が救われるので、この手段は最後の爆弾として準備してある。これは本当に真剣勝負そのものだ。コンサルの一言は、その人だけではなく会社の存続にも影響するので責任は重大である。社長にも伝えてあるが、次回訪問時にはその方向付けをする予定であり、これもコンサルの大切な仕事でもある。

 

さらに悪いことは続く

 

その工場に訪問した時には、いつも行くホテルの近くにあるイタリア料理店がある。おばちゃんが料理をして、しかもウエイトレスもおばちゃんの2人がやっている店だが、味は確かでいつも繁盛している店だ。既に顔馴染みになっているので、私だけの料理も作ってくれる。しかし今回は休みだったので、以前行っていたもう1軒の店に仕方なく行くことにした。店に入るとコックが男性に変わっていた。以前ここもコックはおばちゃんだったが、塩味がきついという欠点があったので、先の店に鞍替えしたのだ。店は誰も客がいなかったが、もう遅い時間だったので仕方ない。ここのウエイトレスは、なんと70歳以上ともられるお祖母ちゃんであった。多分コックのお母さんだろう。しばらくこの店に来ていなかったが、この店を親子で買い取ったのだろう。

メニューを見ると、やはりオーナーが変わったことが読み取れた。それでも前菜とメインのパスタ、そしてワインを注文すると、「今日はいい魚が入っている」と勧められたがそれはまったくの嘘である。日曜日にいい魚があるわけがなく、どうせ残り物で在庫処分にしたいのだろう。店が繁盛していると問題ないが、誰もいない店では期待できない。注文を受け取ったあとにお祖母ちゃんは厨房に入って、「ちぇ!」と舌打ちをしたのが聞こえた。これでまた腹が立ってしまったが、この店にはもう何があっても絶対に来ないことを心に固く決めた。閑古鳥が鳴くような静かな店では、部屋の隅まで聞こえてしまうのだ。