海外こぼれ話 松田龍太郎(在デュッセルドルフ/ドイツ)

連載116   2011.1

 

いざハンガリーへ

 

クリスマス前にハンガリーでの仕事ができたので、デュッセルドルフ空港からハンガリーの首都ブダペスト空港へ向かうことにした。日曜日の夜出発だったので、できるだけアパートでゆっくりすることにして遅い便を頼んだら、1930の出発だった。待合場所で隣に日本人らしき夫婦がいたので、会話を聞いていたらデュッセルドルフにご馳走を食べに来たようだ。そこで話かけると、クリスマス前に和食を食べにプラハからわざわざ来られたという。「やばせ」や「なにわ」などで和食を堪能したとのことで、私の名刺を紹介して「やばせ」の由来の話で盛り上がり、待ち時間があっという間に過ぎてしまった。

しかし飛行機は、翼についた雪を溶かすための作業に手間取ってしまい、1時間も出発が遅れた。ブダペスト空港では、いつもの通訳のキッシュさんとハンガリー商工会議所のピーターさんが待ち構えていた。訪問先はハンガリー第二の都市であるデブレツェン市であり、空港から150kmほど東にある。予定の所要時間は3時間であったが、トイレ休憩なしで行こうということにして一気に高速道路をピーターさんの車で飛ばした。23時を過ぎていて車が少なく貸し切り状態だったので、2時間で目的のホテルに着いてしまった。ホテルはなんと5つ星ホテルであり、部屋もビックリするほど豪華なものだった。もっと早く来てゆっくりすれば良かったが、「あとの後悔先に立たず」である。でも1月にはこのホテルで3日間過ごすことになるので、今度は郷土料理をじっくり楽しみたいものだ。

 

デブレツェン市の工場に訪問

 

このデブレツェン市はハンガリー第二の都市であるが、首都のブダペスト市の人口200万人に対して、40万人と非常に少なく一極集中のような人口形成のようだ。日本語の資料もほとんどなく馴染みが少ない都市であったが、昨年にも別な工場のセミナーで来た記憶が微かに残っていた。だが、頭の記憶素子が少しずつ壊れつつあることを感じる。ホテルから訪問先の工場は、車で10分もかからない近くにあった。この工場が創業開始したのは2001年なので、できたばかりの新工場であった。20年前にハンガリーの民主化があって、労働力の安さに西側から一気に資本が流れ込んだことが手に取るように見える。工場の中は近代的な作りになっていて、ドイツなどの工場よりも綺麗であった。

まず挨拶のために会議室に通されたが、この部屋も現代的にコーディネートされていた。約20人ほどの関係者の紹介があった。最後に入室してきた社長は50歳くらいで、なんと背広なしでネクタイなしのヨットパーカー姿であった。これにはビックリしたが、工場のオペレータのような様相であり、目の前に座った人がとても社長とは思えなかった。そういえばこの会社の人たちは、誰もネクタイをしていなかった。社長の行動スタイルがいつも現場に出向いているので、背広やネクタイは不要だという。これは私の求めているスタイルと同じであったがまだ社長には見えなかった。それぞれの自己紹介があったので、それに対してコメントを付けていたら時間オーバーしてしまい、次は工場視察の時間になるので急げという指示があった。

翌月の1月にこの工場で実施される公開セミナーが予定されていた。その事前準備のために、4つのエリアとテーマを選定したので、それを評価して欲しいというものだった。これにはハンガリー国内から応募があり、商工会議所としての大きなイベントになっている。1つのエリアに対して、1時間の説明を現場の人たちにしてもらった。彼らはハンガリーではかなり改善をしている自負をさりげなく私に見せようとしていた。自分たちは結構よくできているという態度を取れば、自慢している鼻をへし折ってやろうとする性分がフツフツと沸いてくる。今回もそのような場面になってきたので、ワクワクそしてルンルン気分になってきた。攻められることが嫌いだが、攻めることは大好きなので、いくらでも攻めの言葉が泉の如く沸いて来る。しかしその中に、動機付けの言葉も必ず付け足すことを忘れないことだ。これを忘れると、後でとんでもない悪い評判を生むことになるので要注意である。

 

工場では飴とムチを使い分ける

 

彼らは問題ないと思っていたようだが、視点を少し変えるだけで問題が一気に発見できることを悟ったようだ。セミナーが始まるまでに1ヶ月間も時間があるので、準備をできるだけ多くやっておきなさいと指示をしておいた。随分と目からウロコが落ちただろう。それよりも彼らの自信の方が落ちたかもしれない。でもこの工場に従事している人は1000人もいるが、ほとんどが20から30代の若い世代であった。それならばこれくらいの刺激的なインパクトはあった方が、もっと成長するだろうと思ったので、少々の毒舌も薬になるだろう。

昼休憩に食堂に行くと皆さんが若く、一瞬若者のためのレストランかと錯覚するほどだった。メニューはドイツなどでは見られないくらい豊富にあり、デザートも豪華なものだ。食堂の配膳する店員は、皆若い女性で黄色の半袖Tシャツと赤いパンツだった。この風景はアメリカのハンバーグ屋を真似たみたいで、こんなところまで資本主義の影響が及んだかと思ったくらいだ。

午後からも残ったセミナー対象部署に対して、精力的に指摘や指示そして気づきのヒントをたくさん提供しておいた。こうやって彼らを鞭でしばきながら、さりげなくユーモアで包んだ飴を出し、最後に動機付けを行なっていくのに国の違いはない。

最後にもう一度全員が集まって今日の感想を全員から話をしてもらうのに手描きのマイクを用いたが、これも雰囲気を和やかにするには大好評であった。この手法を、先日倉吉市勤労青少年ホームで開催された新春ミニ・コンサートの後の祝賀会でやってみた。手書きのマイクの代わりにマヨネーズをマイクに見立てて(これは初めての体験)代用したが、その持ち方の仕草が人によってまちまちであり、でも和やかな雰囲気を醸し出してもらい非常に楽しい会になった。

 

セミナーの前夜にブダペストへ

 

次の日はブダペスト市内で丸1日のセミナーが開催されるので、再び高速道路をブダペスト市に引き返すことになる。冬なので夕刻になるともう真っ暗になり、景色を見ることはできないためイヤホンで音楽を聴いてリラックスする。ホテルは王宮の丘にあるホテルだという。ブダペスト市内を見下ろす丘からは、観光名所のくさり橋や国会議事堂などが一望できる素晴らしい場所であった。ブダペスト市内には、ドナウ川が流れその西岸がブダ地区、東側がペスト地区になっている。その西側のブダ地区にある王宮の丘の内部に入るには、ゲートを通る必要があって人員制限されているらしく、現在の居住人口は2000人ほどだという。まずはホテルを目指したが、そこは有名なマーチャシュ教会(13世紀に建設、現在は瓦など改装工事中)の目の前だった。ああ最悪!また明日の朝は教会の鐘の音で、たたき起こされるかとがっくりしたが、もう逃げることはできない。

話は変わるが、JALの機内ではアミューズメントシステム(お楽しみの映画や音楽)が非常に充実している。日本とドイツの12時間のフライトには映画を3から5本観ることにしているが、年間で通算すると80本以上も機内で楽しんでいる。11月のフライトでは、シルベスター・スターローン監督・主演の映画「エクスぺンダブルズ」の中で、敵の陣地に入国する際に相棒と2人の名前を偽造する場面があった。その名前がなんと、「ブダ」と「ペスト」であったが縁はすぐそこにあるものだ。

さて話は戻る。ホテルは3つ星クラスであったが、エレベーターはなく2階までトランクを持って上がる質素な作りだった。部屋に荷物を置いて早速食事に出かけることになったが、ホテルの前にはハンガリー商工会議所の所長のマリアさんが既に待ち構えていた。彼女とは7年前からお付き合いがあり、今回のセミナーも彼女からの依頼で訪問することになった。そのハンガリーにおけるセミナーの募集文書があるので紹介しよう。

「わたくしたち(注:ハンガリー商工会議所)は、すでに7年にわたって優秀な日本人スペシャリストと一緒にリーン(注:トヨタ生産方式のこと)&改善ワークショップを開催してきました。しかし2010年最後のセミナーはちょっと変わっています。そのユニークさは、自動車産業だけでなくリーン&改善の視点に興味を持っているすべての関心者が心待ちにしている松田龍太郎 -日本からの改善グル(教祖)- によりものです。松田氏は、ごくわずかな人しか成功しない日常生活からの事例を盛り込んだ、彼の特別で楽しい、ユーモアと威厳のあるレクチャー方法に到達しました。松田氏は、リーン&改善の哲学を『同じ目線』に下げ、参加者に安心感を与えてくれます。氏のレクチャーの特別な体験は、私たちの人生に最後まで寄り添ってくれることでしょう。」云々というもので、なぜかお尻がかゆくなりそうな感じの紹介文だった。これがハンガリーの多くの企業にばらまかれたのだ。“グル”と出ていたので、一瞬サリン事件が頭を横切ったが、私に事件は関係ない。しかし聴衆(顧客)を熱心な信者にしてしまうことは、ある意味で“グル”であるかもしれない。

 

ハンガリーの郷土料理店へ

 

レストランには通訳のキッシュさんらと一緒に散歩がてら歩いていくことになったが、既に吐く息は真っ白だ。王宮の丘の中にはレストランや土産物屋などがあったが、「ペスト&ブダ」という名のレストランを見つけた。これは随分と古いレストランでまだブダ地区とペスト地区に分かれていた100年以上も前からあるレストランだそうだが、今日は閉店していた。目指すレストランは、その先の「ピエロ」というハンガリーの郷土料理を出す店だった。

店に入るとドアのそばでピアノの生演奏があり、しかもクラシックではなく軽快なジャズの演奏であった。客は既に一杯であり、ピアノの演奏以上の大きな声で話をしていた。演奏はよかったが、周囲の会話と混じって騒音になってしまっていた。われわれの会話が成立しないほどになってきたので、別室に移動することにした。そこに通訳のキッシュさんのお父さんがやってこられ、開口一番「こんばんは!」と日本語で挨拶があった。キッシュさんのお父さんは、日本でチェコ大使館に従事されていたので、日本語はお手の物だということを事前に知っていたので驚くことはなかった。自己紹介の時も西暦での紹介ではなく、昭和18年生まれだとおっしゃった。今回お会いするのは初めてであったが、もう旧友の仲のように話が弾んだ。話が弾んでいると店のオーナーがやってきて挨拶をしてくれたが、感じのよいおばあちゃんだった。この店だけではなく向かいのレストランである「21」という店の2つのオーナーでもあった。

 

なにやら怪しいソーセージ

 

料理はめいめいが好きなものを頼んだが、キッシュさんのお父さんからせっかくなのでと、ハンガリーの郷土料理の推薦がありそれに従うことにした。前菜はなんといっても、有名なパプリカがたっぷり入った真っ赤なグヤーシュ・スープだ。メインはなにやら笑い声が聞こえてきたが、豚の血のソーセージとベーコンを焼いたものに、酢キャベツを煮込んだザワークラフトがセットになった郷土料理で、相当勢力がつくらしい。そのためには、フルボディータイプの南ハンガリー赤ワインで出迎えなければならないので、それをオーダーしてもらった。

いよいよメインの皿が登場してきた。ザワークラフトの上に、真っ黒なソーセージがあり、交差するようにベーコンの塊(薄切りではなくブロック)が鎮座していた。ベーコンは塩がきついかと想像していたが、かなり塩抜きがしてあるようですんなりと食べることができた。しかも脂が乗っているので美味い。豚の血のソーセージは、香ばしくてまったく違和感のない素直な味であり、ワインが随分と消化されていく。問題だったのは意外にもザワークラフトであり、ドイツのものより塩がきつかったので、少し残すほどであった。デザートは皆さんが大いに勧めてくれるので、シャーベットを頼んだ。ハンガリーの料理やワインやデザートは、欧州でも格別の美味しさがあるので旅行の際には是非食してもらいたい。

再び散歩しながらホテルに足を向けた。ところがキッシュさんのお父さんが、この界隈の紹介をし始めた。なんと彼が学生時代に住んでいた学生寮がこの建物であり、当時は1部屋に8人から12人が共同生活をしていたことや、現在博物館になっているところは以前大蔵省であった建物だなどなど。時代の流れにともない建物の外観は変わらなかったが、内部は目まぐるしく変化していった歴史が見えてきた。朝になると一斉に学生がマーチャシュ教会の前の広場に出てくるので、人で一杯になってまるで蟻の巣のようだったなど懐かしく話をしてもらった。

 

セミナー開催は大好評

 

ブダペスト市内は昨夜から雪になっていた。ハンガリーの各地方からのセミナー参加者があるので、開始時間は9時に設定されていた。ホテルから会場のハンガリー商工会議所のセミナー会場までは距離的は数kmだったが、市内の渋滞と雪のために30分もかかった。会場に着いてから会場のセッティングの微調整を行い、参加者を待つことにした。セミナーの小道具である栓付きの水の入った瓶と栓抜きは、付加価値を生まない動作である“ムダ”を気づかせるもの。その他にホイッスル(サッカーの笛)、サッカーの警告カードなどを確認した。

当初は25から30人の予定だったが、あの紹介文がよかったらしく、予定をはるかにオーバーした67人の参加になった。ハンガリーだけではなくドイツからも参加があり、ハンガリー語とドイツ語の通訳の女性も来ていた。わあえらいこっちゃ、国際的になってきたぞ。セミナーの時間は9時から17時半までで、実質400分の話になるのがわかっていたので、事前に原稿(シナリオ)を書いておいた。それは成田空港から出発前に、ファーストクラスのラウンジでメモ用紙に書き上げたもので、A4の用紙に6ページ一杯に書いたものだ。それを出発ぎりぎりまで書いて、キッシュさんに送信しておいた。

9時の開始時間にはほぼ参加者は集まっていたが、まだ数人が遅れていた。雪のせいで遅刻は仕方ないかと思ったら、通訳のキッシュさんが耳打ちをしてくれた。ハンガリー時間というのがあり、劇場では7時開始ならば77分に幕が開くようになっているという。これは暗黙の了解ごとだそうだ。でも95分には見切り発車してマリアさんの挨拶からセミナーが始まった。いつもの通りまず参加者の心を開くためのユーモアを持ち出しながら、核心の話に誘導していく。休憩時間も重要な間であり、この使い方でもセミナーの良し悪しが決まることもある。そこで「時間厳守しなかったら、マイクで歌を歌ってもらいますよ!」と宣言したら、他の国と同様に皆さんが時間厳守をしてくれる。どうも欧州人の皆さんは歌が嫌いなようだなあ。

 

2つの会社からオファーがあった

 

休憩後に時間通りに参加者が集合してくれたので、もうこちらのペースで話ができる。既に彼らが私の手のひらに乗った証拠でもある。それから先はいつもどおり質問をこちらから投げ掛けたり、質問を受け付けたり、ユーモアを交えて参加者も一緒になっての楽しいセミナーになっていった。ちょっとのことであるが、彼らの心を掴むということは非常に重要なことである。

本当は核心の部分だけを念頭において、アドリブで話をした方が非常に楽なのだが、前述で紹介した文書が出回ったのでかなりストーリー的に真面目にやる必要があった。中には社員11人で参加した会社もあり、非常に盛り上がり是非1月のワークショップにも参加したい意思表示もあった。またすぐに2社から、コンサルのための事前訪問と予備診断をやって欲しいという嬉しい反応もあったほど好評であった。この点は他の国よりも反応はよい。