海外こぼれ話 松田龍太郎(在デュッセルドルフ/ドイツ)

連載117          2011.2

 

再びハンガリーへ

 

12月に開催したハンガリーのセミナーが大好評であったので、ハンガリー商工会議所と通訳の方から「是非ブダペスト市内の観光のお供をさせてください」と依頼というか要望があった。1月下旬にワークショップセミナーで再びN社に訪問するので、前日の日曜日に早めにブダペストに来てもらえないかというものだった。先月のセミナーが大好評であったようで、そのご褒美も兼ねているのかとも想像してみた。今年の日程は有難いことに12月まで既に埋まっており、原稿も月間5本も連載しているので時間がなくなることを一瞬どうしようかと悩んだ。でも観光をすれば、また面白いこぼれ話のネタが必ず見つかることが頭を横切った。原稿は一気に月の半ばまでに書き上げることにして、1月下旬の日曜日にブダペスト行きを決断した。そうなるとやる気は俄然沸いてくるもので、結局5本の原稿は15日までに書き上げてしまった。目の前にご褒美という人参をぶら下げると、還暦を目の前にしても勢い立つものだ。(でもあと3年も残っているのだ♪)

飛行機の時間を探してみると、日曜日の朝にデュッセルドルフ空港を7時発の便があった。でも朝5時に起きて空港にいくのは、非常に危険な賭けである。前日にはアパートで酒を飲んでしまい、寝過ごすことは目に見えていた。他の方法がないかと便を探すと、意外な点と線の関係が浮かんできた。なにやら松本清張の小説のようだが、日曜日ではなく土曜日から移動すると比較的楽な便の組み合わせが見つかった。それはデュッセルドルフ空港から毎月利用しているスイスのチューリッヒ空港まで飛んで、そこからブダペスト空港に飛ぶものだった。時間的には、アパートを13時半に出て空港に行き、ブダペストには午後7時に到着し、ホテルには午後8時に到着する計画ができあがった。

ブダペスト空港には、商工会議所のペーターさんと通訳のキッシュさんが送迎してくれる手配が整った。晩御飯までご一緒するには、余分な負担をかけることになるので、チューリッヒ空港で軽く食事をして晩御飯を遠慮することにした。考えてみるとこの週は、チューリッヒ空港には3回も利用したことになる。日本国内ならば週に数回利用するので、一気にマイルが溜まることになるのだが、世の中そんなに甘くない。

 

王宮の丘で夜の散歩

 

当日快晴の天気で、飛行機は不思議なくらい定刻通りに運航し、少し早めに目指すブダペスト空港に着いた。出口では送迎の2人がすぐ見つかり、そのまま前回宿泊した市内の西側にある王宮の丘の中にあるホテルに直行した。彼らには残業になるのだが手当てはないので、デュッセルドルフ空港でお土産を用意して手渡した。それは有名なメーカーのK社製のチョコレートにした。チョコレートが美味しいかどうかは私には判断できないが、デザート好きの人はこの美味さが良くわかるという。以前から聞いていたのでこのメーカーのものは間違いないだろうと狙いを立てたが、実はキッシュさんの一番好きなメーカーのものだった。ペーターさんの彼女(昨年逢ったことがある)は、その日のうちにすべて美味しいといって、数百グラムも食べつくしてしまったそうだ。あとでもわかったことだが、ハンガリーの女性は本当に甘いものが好きらしい。

ホテルに着いてから、目の前にあるマーチャシュ教会の周囲を散歩した。前回の訪問時には、小雨だったので夜景はほとんど見なかったが、今宵は夜景を楽しむことにした。教会の右側の道路には、前回何もなかったところに5つの大きな鐘が鎮座していた。大きい物は人間の背丈もあった。翌朝わかったことだが、前回訪問したその日にこの鐘は教会からはずされ、翌日曜日はその鐘の設置する日であった。それらの鐘は修復時にしか地上に降ろすことがないので、もうあと百年は見ることができない貴重な時に出くわしたことになる。夜は照明の灯りで、鐘にある彫刻を直に見ることができた。そこから右にある漁夫の砦(そこからドナウ川が一望できる)にいくと、3組のカップルが寒い中熱い抱擁する姿が見えたので、遠慮して左の階段に歩を変えた。目の毒というより、出張先の一人身の虚しさがさらに心に隙間風が吹きそうであった。

するとバイオリンの音がかすかに聞こえてきたので、さらに歩をすすめると青年が寒い中一人で弾いていた。曲はビバルディーの「四季」だった。石畳と城壁がちょうど小ホールの音響を構成しているかのように彼はそこに立って演奏していたのだ。彼を刺激しないように忍び足で20mまで近づいてしばし音色を楽しんだ。数分も経つと寒くなり散歩しかけると、彼の上の城壁からはこれまたカップルが覗き込みじっと動かずに聞き入っていた。小銭はまったくなかったので、多分熱心な練習をしていたのだろう。このような音楽のあるシチュエーションは日本ではあまり考えられないが、倉吉には「アザレアのまち音楽祭」のサロンコンサートとしてもう29年も続いているのだ。さらに写真を撮りながらあるレストランの前に来ると、ハンガリー音楽の生演奏が聞こえてきた。しばらく外で耳をそば立てていたが、身体は冷え込んでしまった。ホテルに戻るとそこは暖かい天国のようだった。

 

大統領と首相を間近で見た

 

翌朝は10時にキッシュさんが迎えにきて、2時間市内観光をしてから、彼女の家で家庭料理の昼食をご馳走になり、午後2時にペーターさんと一緒に240km先のデブレツェン市に移動する計画になっていた。朝目が覚めるとサザエさんの歌にでてきるような“今日もいい天気”の快晴になった。いつもの習慣で7時に朝食を食べに食堂に行き、教会の見える場所でパンと紅茶で食事をスタートした。8時前からホテルの前にあるバス停には、多くの人が降りて教会の周りに集まり出した。何事かと見ていたら、5つの鐘の周囲に人垣ができていた。9時ごろからは白い衣を着た神父たちが、その人垣を整理するようになった。

時間少し前にキッシュさんがホテルに迎えに来てくれた。この人垣は何かと尋ねた。今日は修復中の教会とともに鐘の調律が終わり、鐘に魂を入れる儀式がこれから10時に始まるので、まずはこれを見てから市内観光にすることにした。2、300人の人が集まっていたが、中央には大統領と首相も来ていて、さらにこの区の区長など来賓も集まっているという。SPもいることもわかったが、こんな至近距離でVIPを見ることは滅多にないことだ。あとで聞くと一般市民も同様でみることはないという。先月訪問した時は、その鐘を外した日であり、時と場所の偶然が重なったようだ。何かのご利益か?

テレビやラジオでも中継をしているようで、報道関係者も取材に来ていた。10時になるとミサが流れ始め、朱色の帽子を被った大司教が香の入った金属製の香炉を振り回しだした。彼もなにやら呪文のようなお祈りをしているようで、20mほど離れたわれわれにもその香の匂いを感じることができた。さらにミサの歌声に続き、旗を先頭に教会の周囲を歩きながら教会内に入っていった。日本でも象徴物に魂を入れる儀式はよくあるが、外国でも同様なことをやっていることに今回遭遇することができた。それほど今回の儀式は並々ならぬ出来事であり、ちょうどよいタイミングに出くわしたことになる。日本の儀式の場合には酒と塩を用意するが、ハンガリーではワインにパプリカだと思ったら、香のみであった。また帽子の色によって位の違いがあるようで、赤というより朱色が一番で、二番目が紫、そして白の順番らしい。この朱色は、神社の鳥居の色に使われている高貴な色だが、こちらでもその色を使っているようだ。

 

天皇陛下も献花された英雄の広場

 

快晴の王宮地区を散歩してから、ドナウ川の東対岸であるペスト地区に向かう。日曜日の朝なので、交通量は少なくスムーズに移動ができた。まずは国会議事堂に行く。19世紀後半にハンガリーが最も栄えた時代の建築物が市内に数多く残っているので、観光には持ってこいだ。面白いことに上流側に上院の部屋があり、下流方向には下院の部屋になっているそうだ。変なところに見栄を張るようだ。1000万人の国民に対して、なんと300人も国家議員がいるという。日本が13000万人で、約1000人の議員だから約4倍の議員がいることになる。船頭が多いと船は進まないが政治も一緒か。ハンガリーの人たちは政治家が大嫌いだと聞くが、この比率をみると嫌いになる気持ちが理解できる。共産時代の遺伝子がまだ完全に残っていて、仕事は先送りばかりで、税金はむしり取られるとたまったものではない。最近の話では、シンガポールの経済成長率が昨年は15%も上昇したというが、政治の差は歴然としているようだ。

そこからパリのシャンゼリゼ通りを真似て整備された大通りを2km進むと、道が段々広がった先に「英雄の広場」がある。道は真っ直ぐで、両サイドには並木があり、ナポレオンの趣味がここにも飛び火していた。広場に近づくほどに一軒家が立ち並んでいるが、これはお金持ちの邸宅である。現在は一人で住むのはコストが掛かり過ぎるようで、アパートに分散したり大使館やレストランなどに利用されたりしている。「英雄の広場」は、直径100mほどの石畳を囲むように旧来の英雄たちの銅像が立てられ、その真ん中に高さ30mの塔がシンボリックにそびえている。雲ひとつない快晴の空に突き刺さるようだ。天皇陛下も2003年にここで献花をされたが、私は記念撮影のみとした。この近くには温泉が出ていて、市民の憩いの場になっている。その温泉場はまるで宮殿のような造りであり、湯に入るだけでも王様になった気分になり病気も治るのだろう。

 

美しき青きドナウとはこのこと

 

その場所からブダペスト市内を横断しているドナウ川を一望できるゲレルトの丘を目指した。ブダ地区の漁夫の砦と並んで、市民のデートスポットになっているのはすぐに理解できた。一年に数日しか見ることができないという水面が青く見えるドナウ川が、今日は空の色に見事に反射してその奇跡に遭遇することができた。普通ドナウ川は茶色に濁った濁流であり、今日のように水面が青く見えることが珍しい現象のようだ。立っている丘の背後から太陽が斜めに差し込んで、青空を映し出しているようだ。

そこからすぐ下にある2001年に建立された「哲学の庭」(ハンガリー語と共に日本語で石に刻まれている)の紹介があった。それは世界平和を祈ったワグナー氏という彫刻家の作品であった。これはキッシュさんの親戚筋に当たる人で、日本には29年在住されて、42歳の時に日本人の奥様と結婚されている。その像は、仏陀、キリスト、孔子、ガンジーなどの聖人の像がほぼ人の背丈のサイズで作られていた。ちょうど写真を趣味にしている30代の夫婦が、彫刻像と一緒のポーズで記念写真を何枚も撮っていたが、まるでどこかの漫才師のような夫婦であった。実はこれと同じ像が東京の中野区にも、2009年のハンガリーと日本の国交開始140周年記念の年に建立されたものがあるというので、今度は訪れて見たいものだ。時計を見るとそろそろ次の日程である昼食の時間が迫ってきたようだ。

 

ハンガリーの家庭料理を堪能

 

キッシュさんの家は、丘を下り別な丘の中腹の一軒家が並んでいる住宅街にある。家に着くと周囲から犬の鳴き声が多く聞こえたが、犬も昼ごはんを求めているのだろうか。白い大きなメスの秋田犬の「ダイキチ」が出迎えてくれた。ここで運転をしてくれた旦那様は、仕事があるというので中座された。何とタップダンスの世界チャンピオンだという。部屋に入り天井の高いリビングに入ると、昔の家具が並んでいた。その家具の上には日本で収集されたというコケシが数十並んでいた。お母さんは今回初めてお会いするが、日本語が非常に流暢であった。在日11年間の経験は価値がある。その点ドイツ在住11年の私は、ドイツ語の単語も30個も覚えていない落第生だ。これは優秀な通訳のお陰か。

以前聞いていたご趣味のサボテンを拝見したが、数百鉢もあり圧倒されそうだ。その先は庭があり、なんとクルミの木が植わっていた。毎年大きなバケツに一杯実を収穫することができるそうで、今年収穫したものを食べさせてもらった。木の実をパクつきながら話をしていると、ワインはいかがと誘い水が掛かってきたので即「トカイワイン」で乾杯になった。瞬く間にワインはなくなってしまった。最後までサボテンの料理はでなかったが、あれは観賞用だった。

いよいよ食事の時が来た。前菜は、牛肉、白人参(日本にはほとんどないので、ゴボウで代用可)、普通の人参、コールラビの野菜を湯がいたものに肉スープを掛けながら食べる家庭料理だ。肉スープは、牛肉、人参などと一緒に素麺のようなヌードルが入っている。ワインはここから赤ワインに交代し、料理に花を添える。会話は実に滑らかに日本語で弾んで行き、まるで日本にいるかのようだった。次にメインのグヤッシュ・トムソンという人の名前がついたスープだ。家庭ごとにこのスープは違い、日本の漬物と一緒で同じものでも味が微妙に違う。日本の家庭では核家族化になり、糠漬けをしている家は稀になってきた。

ハンガリーはどの家庭も、自分のスープが一番美味いと自慢するほどこだわりを持っているという。赤いスープは、もちろんパプリカだ。その煮込んだ鍋の中央に白いものがあった。それはザワー・クリームであり、ハンガリーの男性はこのパプリカとザワー・クリームが大好きで、少々料理をミスってもこの2つがあれば男性は平らげてしまう魔法の食材であるという。これに相当するものは何かと考えたら、パプリカがタマネギで、ザワー・クリームが胡麻油だろうか。この2つを上手く使えば家庭も円満になるだろう。

昼でもフルコースになっているようで、デザートが2つあるという。甘いものが苦手であるが、挑戦してみることにした。甘さは抑えてあり、コーヒーと共に胃袋に収めることができた。その時に車を運転してくれるペーターさんが、同じ事務所のエバさんと一緒に現れたので、ケーキを食べる応援をしてもらった。お腹が一杯になったので、目的地に出発した。快晴の日曜日は交通量も少なく、料金所が一切なく快適なドライブになった。

 

ハンガリーにようこそ

 

ホテルは最近できたホテルで、先月宿泊した5つ星とは違い(やはりかなり高価だったらしい)、今回はセミナー参加の人たちも宿泊する4つ星になった。このホテルのコンセプトは、中世の騎士を題材として飾りつけから床の絨毯の模様まで統一されていた。部屋はバス付きかと思ったらシャワーであった。でも朝5時起きの私には湯が出なかった。早起きは三文の徳はハンガリーには適用できなかった。ハンガリーにようこそ。あとでわかったことだが、朝6時を過ぎてから湯が出る仕組みになっていたが、冷たいシャワーでの洗髪は非常に寒かった。朝ホテルの朝食には、7時からだったので1番に食堂に行った。ウエイターが何も飲み物を聞きに来なかった。こちらから立って何もしないそのウエイターに「Tee」といった。そのウエイターは、大きなポットに湯を入れて持ってきた。なんと紅茶が入っていなく、湯だけであった。ハンガリーにようこそ。外はマイナス4度まで下がっていて、路面は凍っていた。

翌朝セミナーの始まる時間になってもまだ全員が揃わないので、どうすべきかと訊ねたらまあ適当にと返事が返ってきて、なんとなく始めることにした。ハンガリーにようこそ。適当でもなんとなく世の中がなんとなく回ることは素晴らしいが、これは共産時代の名残だろうか。先が思いやられると感じ、休憩時間の指示は遅刻したらマイクを持って歌わせることにした。それでも遅れる人はわずかにいたが、この罰ゲームはかなりの効果があった。

セミナーのある工場の昼ごはんは、立派な食堂であった。メインとスープ、さらにデザートも付き味も大層美味かった。しかし甘いジュースやコーラ類はあるが、ただの水は食堂になかった。食事が終わるとすぐにセミナー会場に行って水を補給した。ハンガリーにようこそ。夜は参加者全員が宿泊しているホテルの地下の食堂で一斉に食べるかと思ったが、メンバーが一度に揃わないため、結局小さなグループ間で始まった。彼らの勧めたビールはなんとチェコ製だった。これが美味かったので、200ccのグラスのリクエストしたら、1リットルのジョッキで持ってきた。これで飲みなさいというが、これはどう見てもジョッキではなく、ピッチャーだ。このサービスに、ハンガリー万歳だ。