海外こぼれ話 119                2011.4

 

地震のニュースが

すぐにドイツでも紹介

3月11日の金曜日の夕方に南ドイツのC社の仕事を終えて、アパートに帰るために近くのStuttgart空港に着いた。デュッセルドルフ空港行きの時間は、2時間半もあったので、軽くパンとビールを飲みながら時間つぶしをしていた。通訳のMさんが、新聞を取り上げて大事件があると新聞を見せてくれた。

東北地方での地震で大津波が発生して、その4枚のライブ写真が第一面に載せてあった。目を疑って見ても本物の津波であり、早速パソコンを起動させてインターネットで映像を見ると、既にいくつもの角度で撮影されたものが取り上げられていた。日本とドイツの時差が8時間あるので、ドイツの夕刊に間に合ったのだ。ちなみにドイツの夕刊は、この1社だけしか残っていないらしい。映像を見ると信じられない光景が出て来たので、全身の体から力が抜けていった。

それ以降はラジオからは、「ツナミ」が何度も聞こえてきた。ツナミは、もう世界共通語になっている。日本の家族の携帯に電話をするが、まったく通じなかった。相当混乱をしていることが想定された。地震の規模を表示するマグニチュードが、M9に修正された。阪神大震災の200倍!の規模の地震とは、まるで想像できない規模の地震だ。

しばらくすると「ツナミ」のアナウンスが、原発の崩壊に伴うニュースに変わっていった。すると「フクシマ」という言葉がニュースの最初に流れるようになった。いつもクラシックの曲を聴いているチャンネルにも、定時になると真っ先にニュースは「フクシマ」からしゃべり出すようになった。色々な企業に訪問したが、さまざまな人からお悔やみの言葉や家族の安全についての問い合わせがあった。皆さんが「フクシマ」を覚えてしまっていた。

ドイツは原発に敏感だ。政府もすぐに原発賛成から手のひらを返したように、反対に姿勢を変えたが、メルケル首相の政党は地震のすぐあとの選挙に負けた。原発を囲んで数十万人の人垣を作って反対運動も各地で盛んになった。

放射能に異常反応するドイツ

日本にあるドイツ企業からは、ドイツ人たちは放射能汚染が怖くて日本脱出をすぐに始めたニュースも入ってきた。駆け込みが相次いでルフトハンザ航空のエコノミーチケットが、7000ユーロまで高騰しているとニュースにもでたほどドイツ人は大慌てだったようだ。これは約80万円になり、ビジネスの往復料金より高く、ほぼファーストクラスの片道分の料金に相当するのであり気違い沙汰である。月末に帰国する時に、隣の席にいた人から聞いた話は次のようだった。ルフトハンザ航空は、成田空港が放射能汚染地域に近いから成田線は発着しないで、名古屋や関空に変更されたという。それで今回は日本航空を使ったといっていた。

その他にドイツ某企業のマネジャークラスは、全員が東京から大阪に移動して日本を引き上げたという話も流れてきた。これはチェルノブイリ事件が、彼らの頭に相当イメージに残っているからだろう。その割には、食器を洗うのに強力な洗剤を振りまいて洗い、完全に落としていない食器で食事している神経には疑問を感じる。そのまま食べる図太い神経も持ち合わせているのは不思議だ。彼らは放射線に対して怖いが、化学薬品には強いのか。

これを機会に見た目に悪い風力発電が再び見直された。風力発電の低周波の影響は、原発よりまだましだからというのが理由だそうだ。しかし一連のニュースは、大騒ぎの好きなマスコミの格好の餌食になったようだ。ドイツのニュースには、他の国のように義援金などの話は聞こえてこなかった。今年は日本とドイツの国交を結んで、150年記念の年になっているが何故だろうか。少し寂しい気もした。お隣のフランスは、電力の8割を原発に依存しているから、その点の恐怖心は見られないようだ。ここにも国民性の差が出ていうようだ。

夏時間の切り替え

3月はドイツだけでなくチェコやスイスにも出かけ、合わせて9工場に訪問したが、移動につぐ移動で大変だった。欧州は30年ほど前からサマータイムの制度が慣習になっている。最近ロシアはこれを廃止したというが、今度は原発の崩壊で日本が再びサマータイムを検討し始めたようだ。その切り替わりが、3月の最後の日曜日であり、再び冬時間(元の時間)に切り替えになるのが、10月最後の日曜日である。

3月は午前2時が瞬間的に3時になるが、テレビや新聞そしてラジオでも喚起の放送がされる。しかし私はドイツ語が聞き取れなく、最近は原発のことしか放送していないので、3月27日の日曜日に時間が切り替わったことをしっかり忘れていた。しかもこの日は結婚30周年の記念日だったので、事前に花屋さんに相談して家内に花束を届けるサプライズのことなどで頭が一杯だった。

しかもこの日はチェコに移動する日であり、午前中にすべてのことをやりあげてしかもそのまま木曜日に帰国する準備もし終えていた。そしてデュッセルドルフ空港からプラハ空港で、チェコの通訳と担当者と落ち合う設定であった。デュッセルドルフ空港を1430分発の飛行機なので、1時間前には空港に行きチェックインするので、逆算してアパートを13時に出てタクシーを拾えばよい。ゆっくりと昼ごはんを食べて、お茶を飲んで出発しようとしていた。

何気なくドイツダイジェストという週刊の20ページほどの無料新聞に目を落とすと、なんと今日からサマータイムが始まることが小さな文字で印刷されていた。時計を目にすると、1237分。つまり、1337分になっていた。飛行機の受付時間終了まで23分しかない。慌てて茶碗などを流し台に投げ捨てて、さらに上着とコートを持ってアパートを脱兎のごとく飛び出した。

サマータイムブルース

いつもは2つ先の通りにあるホテルニッコーまでタクシーを拾いにいくが、今日は完全に時間がない。アパートの近くのオスト通りには、時々タクシーが待ち構えていることがありそれを目指した。トランクを引っ張りながら300m走った。運良くタクシーが1台待ち構えていた。大きく手を振ったが運転手は気づかない。信号を無視して、横断歩道を斜めに横断してタクシーを確保した。空港へ急げ!と何度もいって運転手に飛ばさせた。普通20分掛かるが、今日はなんと13分で空港に着いた。時計を見ると14時だ。自動券売機は間に合わないので、カウンターに直接駆け込んだ。

人が並んでいたが、時間がない!と叫んで一番前に出た。このような状況では、日本語でも通じる。大きな声を出せは何か異常と分かるものだ。チェックインカウンターの受付嬢は、目を11時5分のように吊り上げて、「順番を守れ!」といっているようだった。般若はドイツでもいるものだ。それでもルフトハンザのシルバーカードを、差し出すと大人しくなった。ゴールドカードなら般若も頭を下げるが、まだマイルが不足しているのでここは我慢のしどころだ。チェックインしてトランクを投函するともう安心だ。必ず荷物と人がセットにならないと飛行機は飛び立たないのだ。人間が遅くなっても、必ず飛行機は待ってくれるのはテロ対策のためである。

身体検査ラインも人が並んでいたが、今回はファーストクラスのラインに飛び込み一番前に出た。待っている人たちに頭を下げてお願いし何とか間に合った。やれやれだ。あとは83番ゲートに行けばよい。しかしそのゲートには誰もいなかった。ゲートにはABCの3つしかないのに、何故プラハ行きのゲートがない。アナウンスで私の名前が3度も呼ばれたが、どこへ行けばよいのか分からない。うろうろしているとまた別の般若が出てきて、こっちだと手招きする。なんと3つの分割されたゲートの他にDとEのゲートは反対側にあったのだ。いつもはABCの方側を利用していたが、その日に限って反対側だった。慌てると周囲が見えなくなるものだ。

その女性の般若は、「あんたを3回も呼び出したのに分からんのか!」というが、こっちはドイツ語がまったく分からない。でもその形相を見たら、完全にきれてしまっていることは分かる。このように女性が感情的になりやすいのは、右脳(感情)と左脳(論理)を結ぶ脳りょうというパイプが男性よりも太いためで、両方の情報が一気に流れるためのようだ。しかもよく切れるが、甘いものを食べるとすぐに元に戻る速さも兼ね備えているようであり、まるでチョコレートでできたブレーカーのようだ。

バスに乗ったら皆の白い視線を感じた。その時に汗がドッと出た。でも出発時間には間に合っていた。足元を見るとズックとジーパンであり、かなりカジュアルな姿であった。だからタクシーまで、よく走れたことが理解できた。訪問先のお客様にはこれらの事情を説明して、このファッションの正当性を認めてもらった。

通訳もサマータイムブルース

通訳のMさんの腕時計は、日本のC社の誇る立派な最新の電波時計である。彼はその時計が世界中の電波を受信していて、いつも正確な時刻を刻むことを自慢している。確かに1秒の狂いもなく、ワンタッチで日本やドイツの時刻を表示もしてくれる。時にはストップウォッチにも使っている。私の時計は手巻き式で、しかも24時間に竜頭を回さないと止まる時計だ。しかも1ヶ月の間に少し狂うので、いつも1分くらい進めている完全なアナログ時計だ。この夏時間の騒動の話をしたら、Mさんも困ったことがあったと正直に話をしてくれた。

彼の家はデュッセルドルフとケルンの郊外にあり、つまりオランダの近くに位置する。言葉を換えれば田舎であるといった方が的確だ。いつものように腕時計を見ながら、出張準備を整えていた。昼頃になりそろそろ準備しようと時計を見たら、まだまだ十分に時間があることを確認した。

しばらくパソコンで仕事をしていたら、画面の右下にある時間表示と腕時計の表示が違うことを発見したという。今日から夏時間ということは知っていたが、電波時計は午前2時に自動で調整してくれるものと思っていたようだった。しかし彼の家は田舎にあるために電波が届かなかったようで、精巧極まる電波時計も知らん顔だった。

彼も慌てて準備をして飛び出し、何とか予定時間に間に合った。ケルンに着いた時に時計を確認したら、既に夏時間になっていたという。電波の強い場所に移動したので作動したようだ。彼の反省として、いくら正確な機械だと思っても過信は禁物だというものであった。いつも現地現物といって現場の確認をしていることを通訳しているが、それを今回勉強になったと反省しきりだった。

最悪のホテルにようこそ

このスイスのM工場は、バーゼル市の近郊にある。南ドイツのジンゲン市(写真展でも紹介した町)にある毎月訪問している工場からの移動であった。今回宿泊したホテルは、いつものホテルとは違っていた。バーゼルがたまたま時計と装飾品のメッセをやっている期間に当たって、バーゼル市近郊の一連のホテルが取れなかった。そのためにジンゲン駅から鉄道でいったんスイスに入り、再びドイツに戻るという路線に乗って1時間ほど移動した。

その村は保養地であり、村の名前にそれを示す「Bad」が付いていた。この地名が付いた町村がドイツに数多くある。駅からは徒歩6分だったので、トランクを引きずりながらホテルを探した。今はスマートフォンという便利な携帯電話があり、地図機能を使ってホテルの位置を検索すれば、カーナビにもなる。

そこは村の中心にあり、目の前にはなんと教会があった。これに教会=鐘の音=眠れない夜=睡眠不足の方程式が一気に頭を横切った。今までに何度も痛い目にあってきた。ホテルの玄関に着くと4つの星がついていた。これは少し高級そうだ。フロントの兄さんはきちんとネクタイを締めている。しかし頭はよくなかった。イタリア料理の店はないかと訊ねたら、数分間インターネットで探して地図を印刷してから、この通りには多くのレストランがあるのでこの辺にあるという。違うがな!!この店がお勧めですといえばよいのだ。これは当てにならないと通訳のKさんと顔を見合わせた。

2階の部屋だったので、エレベーターを待っていたが、2分も経ってもうんともすんとも動かない。フロントのお兄さんに問いただすと、いつも動いているからもうしばらく待てという。さらにボタンを押し続けたが、まったく作動する気配がないので、歩いて上がることにした。見ると上の階でエレベーターは故障したままだった。案の定部屋は、最悪の教会の鐘が正面に見えた。しかも部屋は改装されたばかりで綺麗になっていたが、壁紙を張った接着剤の臭いで吐き気がするほど酷かった。窓を全開にして食事に出かける時に、「故障しているので、張り紙くらいしておけ!」と出るときに申し渡したが、我関せずの態度だった。そして次々と客がトランクを持って上がっていくが、フロントの人間は援助しようとはしなかった。

悪魔のサイクルは回る

朝8時にM工場に訪問するためには、45分もタクシーに乗るほど遠い村にホテルがあった。しかも渋滞が予想されるというので、1時間前には出発する必要があった。そこで朝食を6時半に頼んだが、7時からしか用意できない返事が返ってきた。ドイツにサービスのないことを思い出した。しかも保養地の4つ星ホテルでもこの有様だ。それならサンドイッチの弁当を作れと指示したら、しぶしぶ了解した。

翌朝綺麗な紙袋に収められた弁当をタクシーの中で食べようとしたが、これがとても不味かった。廃棄寸前の具材をまとめてパンに包んだようなもので、悲惨な弁当だった。普通は我慢するが今回は耐え切れなかった。部屋の揮発臭が災いしたかもしれない。しかも想像以上の渋滞になり、タクシーの運転手は予定以上に30分から45分遅れる見込みだという。すぐに工場に電話をして、30分ほど開始時間をずらしてもらう手配をした。天使のサイクルは大いに回ってもよいが、このような悪魔のサイクルは回って欲しくない。何のことはない、既に半年前から訪問することが分かっていたのに、寸前まで手配しなかったミスがこのような悪魔を呼んで来たのだ。

遅刻者が見事に

「野バラ」を歌う

訪問先でいつも口うるさくいっている1つが、時間厳守である。でも今日は自ら遅刻したので、大きな声でいえなかった。始まりの時間、各チームの発表の時間、そしてコンサルタントの講義の時間も同様である。日本にも倉吉時間などといわれ、少し時間に遅れても構わない習慣が根深く残っている。この規律のなさがすべての改善の歯車を狂わせている。今回スイスのM工場に行った時に、ドイツの本社から私の噂を聞いていて、念願叶ってようやく参加できたと喜んでいた初老のエルスナーさんがいた。

2日目の講義に彼は遅刻をしてきたので、罰ゲームとして手描きのマイクで歌ってもらうことにして指名した。実は彼が別な仕事も抱えていて、訳ありの遅刻とは事前に知っていた。今までは誰もが遠慮して歌うことはなかったが、彼は1つ咳払いをして左手を腰に当てて姿勢を正し始めた。手描きのマイクを右手に持つと、ゲーテの詩でありドイツ民謡として有名な「野バラ」を歌い始めた。しかも低音のよく響く声で見事に歌い上げた。歌い終わり礼儀正しくお辞儀をされると、参加者から割れんばかりの大きな拍手が彼に贈られた。

あまりにも見事であったので、あとで訊ねて見たらなんと奥様と一緒に合唱団で歌っているという。その日は間接部門の初めての取組みであったが、その歌声の影響もあってか、社長もビックリするほど改善ができてしまった。歌の力は大きいと感じた。この「野バラ」は、ドイツ語の授業で初めて習ったこともあり、また『混声合唱団みお』でも歌った曲でもあり、非常に懐かしく聴かせてもらった。