海外こぼれ話 125                2011.10

連載125

またも教会の恐怖が…

 ドイツのルール地方にある約2万人のヴェアドールという町に今年から訪問している。いつも決まった4つ星のホテルに宿泊しているが、今回はそのホテルから3km離れた隣町の3つ星ホテルになっていた。いつも宿泊するホテルは、訪問先の隣にある企業がドイツの工場の交流会と称して、10チームでの対抗戦が開催されて週末から満員だったためにはじき出されてしまったのだ。でもこの企業を訪問することは昨年末からわかっていたことであり、近々になって事務所が慌てて予約したが、いつものホテルは手配できなかったようだ。

今年になって何度もこのような手配ミスの是正依頼を出しても、事務所は一向に改善をしようとしない。お客様に神経を使うことは当然だが、飛行機や電車さらにタクシーやホテルの手配にミスが多く、そっちの方に神経を注ぐようなことは本末転倒である。事務所はバックオフィスの意味を理解していない。

日曜日の夜に車で着いたので、よくわからなかったが隣が教会だった。しかも部屋の前は交差点だったので、朝5時ごろから車やバイクの騒音でうるさかった。通訳のCさんの部屋は最悪だった。教会に面した部屋だったようで、夜中の2時から鐘の音で寝ることができなかったと眼をしょぼしょぼさせていた。教会の鐘は、3時だとまず小さな鐘で4回鳴らす。そして、時刻の3時の3つを別な音階で鳴らす。3時15分だと、15分を知らせる小さな鐘が1つ鳴る仕掛けになっており、30分なら2つ。45分だと3つ鳴るようになっている。いったん眼が覚めると、鐘の音が気になってしまう。住民がほとんど時計を持っていなかった時代には、非常に重宝な時を知らせる道具であったが、今はだれでも目覚まし時計や腕時計を持っているので無用の長物だ。しかも朝の7時の鐘の鳴る時間は4分間もあったが、これはホテル側との協定があったかもしれない。客に必ず7時に目覚めさせて、朝食を必ず取らせようとする作戦のように思えた。またも教会が海外こぼれ話のネタになってしまった。

安いホテル名前は「石炭」という

 そのホテルの名前は、「石炭」という奇妙な名前であったが、ルール地方なのでなんとなく納得した。タクシーを待っている間、道路沿いにはホテルの窓に一泊35ユーロと大々的に宣伝してあった。このホテルは安さで勝負するホテルであり、先の4つ星ホテルは70ユーロくらいだ。夜泊まった時には気づかなかったが、増築して継ぎ足したホテルのようで廊下には段差があった。食堂に向かう階段は奇妙な段差があり、転げ落ちそうになったくらいだ。しかも部屋は最近改装したようで、接着剤の臭いがまだ残っていた。3月にスイスの企業に行った時に隣が教会で、鐘の音と共にこの接着剤の臭いで息ができなかったが、またもや再現した。信じられないが安いだけあって部屋やトイレの掃除も、5日間のうち2日間はしていなかった。

普通1週間は2日間と3日間の組み合わせの仕事であるが、今回に限って5日間も同じホテルに宿泊するはめになっていた。5日間連続することは、5年に一度の確率なので、教会の呪縛の恐ろしさには完全に参ってしまう。固定式の机とベッドの間が数十cmしかなく、椅子をずらすことはできず、しかもスタンドランプがなく、仕事をするには明るさが不足していた。このような安ホテルで仕事をするような人は、泊まらなくてよいという前提があるようだ。

オーダーをして

1時間25分待たされた

 宿泊していたのがわれわれ2人だったようであり、月曜の朝食は鳥の餌みたいに実にシンプルなものだった。卵料理もなくパンとジャムに少しのハムが出ていただけだった。まるでフランスに来たようだった。力を蓄える朝食ではなく、仕方ないのでそのまま工場に向かった。天気も涙を流しそうな曇り空であった。それでも晩御飯には期待をしてみた。というのはホテルの周囲にレストランが見つからなく、数百m先に一軒のピザ屋があったくらいだったからだ。

 通訳のCさんは、体を動かさないとダメな性分なので、ジムのある町では必ず毎日リフティングなどの運動をしている。その日も運動を終えてから食事をしましょうという約束をして、7時半にホテルの食堂で待ち合わせすることにした。7時半前にCさんから電話があり、帰りのタクシーがないということで、かなり遅れるというので一人で食事のオーダーをすることにした。田舎で大したレストランもないのか知らないが、店にはおばあちゃんのグループが数人既に陣取ってワイワイ賑やかに談笑していた。他には数組の人たちがテーブルを囲んでビールを飲んでいた。ホテルのオーナーの女性が注文を取りに来たので、まずは大好きな「デュンケル・バイチェン(酵母の入った黒い麦ビール)」を頼んだ。そして料理は、牛肉のペッパーステーキを頼んだ。

その日は、豚肉料理の日らしく9種類の小さな料理があり、3つの組み合わせで9.9ユーロという格安の値段であった。それがかなり評判がよいみたいで、皆さんがそれを頼んでいた。でもメニューが読めないし、後で後悔をしたくなかったので安全なメニューを選択した。しかし、いくら待っても料理が出てこない。40代のウエイトレスはどうもオーナーのようだった。時々20代の若い女性(あとで聞いたら彼女がコックだった)が皿を持って出てくることがあったが、どうも客に対して店の人員不足が感じられた。そうこうするうちにCさんが帰ってきた。まだ料理は来ていないの?と疑問符。まだだ!と感嘆符。えええっ??と疑問符。Cさんも注文する。まだ私の料理が来ない!!!(怒)。

ようやく待つこと1時間25分も掛かって料理が来た。これは今までで最悪の待ち時間だった。その間にマンダラ手帳に色々書き込みをしていたので、時間のムダはなかったがそれにしても長く待ったものだ。結局遅れてきたCさんと同じ時間に食事をすることになったが、その間にビールを1リットル飲んだので、お腹がいっぱいで肉の味がしなかった。翌日はまた20人以上の客がいたが、オーダーを取りに来るまでなんと20分も掛かった。目配せをオーナーのウエイトレスに何度もしたが、一向に私のオーダーを取りに来なかった。当然チップはなし。料理自体はまずまずだったが、教会の恐怖が改めてわかった。

残業が4日間続く

 悪いことがあったので、仕事の方はこの先どうなるかと案じられた。月曜日早々改善担当のB部長から話があるので、残業に付き合って欲しいと嘆願された。内容は、新任の社長がわれわれの取組んでいる改善に反対をしていることを心配して、相談したいという。昨晩熟睡していなかったので、断ろうかと思ったが来年のコンサルに非常に影響するので応じることにした。すると彼が知っている伝統的なドイツの料理を一緒に食べながら相談するというので、少し前向きになってきた。それは申し訳ないと思って、今日は私がおごりますよといったら、「それなら高いレストランに行きましょう」と提案された。でもこれはB部長のジョークである。40分も掛けて移動したら周囲は丘と畑しかない田舎のレストランに着いた。そこで色々な情報を受け取ったが、落ち着いて食事ができるものではなく、かなり真剣な状況だった。

結局お腹ではなく、心労の方で胸が一杯になった。翌日はB部長に加えて製造部長のSさんも同席して、さらに情報を提供したいと申し出があった。内容としては非常に貴重な情報であったが、今日も残業になってしまった。このS部長は、半年前まではこの改善活動の一番の反対者であったが、今は一番の賛成推進者になった人である。このことについては後述する。その残業が終わってからCさんと明日の社長を説得するための資料作りに追われることになり、さらに残業となってしまった。

社長を皆さんが説得した

翌日はその資料を完成させるために、別な部屋に篭ってもよいとS部長の配慮があり、集中して資料を次々と作成していった。パワーポイントの資料を20枚以上新規に作成し、従来の資料と併せて40枚の説得工作資料を完成させた。Cさんとのコンビでは、機関銃のように資料を次々と考え生み出していく。この取組みは2年前からやりだして、既に数十種の資料を作成してきた。瞬間的にアイデアも湧いてくるようになった。文字ではなく図やイラストで発想するようになってから、イメージが泉の如く湧いてくる。年をとっても逆にアイデアは衰えないようだ。これもお尻に火が点いたことと訓練の賜物だろう。

資料の完成は、社長との面談のなんと5分前だった。作業は非常に辛いものであったが、知恵を絞り出す過程は快感そのものであった。そのプレゼンの時間は午後4時半。社長をはじめ、幹部6人の前で1時間のプレゼンを行い、その後は説得のための質疑応答のやり取りがあった。

社長は反対尋問が主体で色々とケチをつけていたが、やがて幹部全員が賛成意見を言い出したではないか!特にS部長はツバを飛ばしながらの熱の篭った訴えであった。これは予想外の事件だった。1時間の説得工作でようやく社長から笑顔がこぼれ始め、「賛成する」と快い返事があった。結局今日も残業になってしまった。来年も今年と同じ日数の仕事を得られるようだ。

コンサルは残業手当がなく、1日いくらというどんぶり勘定である。実は翌日も改善担当者が悩んでいたので、それをフォローしていたら4日連続の残業になってしまった。これは12年間のコンサル生活で初めてのことであった。それまでは完全に公務員のような定時で切り上げる生活だったが、それまでも妨害する教会の力はなんと恐ろしい存在か。

共同チームの雰囲気が怪しい

 実はそれだけではなく、ワークショップにおいて製造と保全の共同チームで活動を始めたが、最初の日の午前中に異常に雰囲気が悪いことが見えてきた。製造と保全は犬猿の仲で、今回その組み合わせを意図的に仕組んだという。改善担当も意地悪で、最初にそれを言ってくれれば心構えができていたのだが罪なやつだ。なんとまたチーム編成まで、教会の影響を受けたのだ。そこで最初の日の昼食時に、皆さんを集めてガス抜き作戦に打って出た。本気でこの活動をやる気があるのかを、非常に柔らかい言葉と言い方で伝え、彼らから本音を聞きだすきっかけを作った。昔の私は瞬間湯沸かし器のように一気に怒りを爆発させていたが、コンサルになってからは「ゆるキャラ」に変身してしまった。それより、伸びきったパンツのゴムの例えの方がよいかも?この駆け引きというか、瞬間的に雰囲気を読んで即対応することができるようになってきた。

彼らには、この活動に期待することに対して全員から意見を言わせるように仕向けた。嘘か誠かわからないが、非常に効果があった。これも「ありがとう」という感謝の気持ちを念じながら、波動を彼らに密かに送っていたのだ。そして小さなテーマに分解して、製造と保全のメンバーをペアで組み合わせて3日間のテーマに取組ませた。この時に出す例え話が、象を食べるにはどうしたらよいかという質問である。重さ4トンもある。全員の目が点になる。誰も象を食べたことがないからだ。そしておもむろに、まず象をライフルで仕留めて殺す。そして、小さく切り刻んでから料理して、皆で食べるのだと紹介する。この話は問題から逃げずに、まず正面から向かうことで問題は半分に小さくなり、さらに問題を小さく分解して解決できるようにして取組めという教訓である。

これが功を奏して、今まで最も効果のあった活動になってしまったが不思議なことだ。このテーマには人事部長やIT部長も参加しており、まったく関係ない部長の方が燃えてきてしまう珍現象まで引き起こしてしまった。特にIT部長は、後の2日間も別なテーマにも参加することになった。

S製造部長の大変身

 前述の製造部長のSさんは、半年前までは私に反発的でこの改善活動の一番の反対者であった。最近結婚したばかりだったが、彼の奥さんが以前コンサルしていた近くのB社の組合員(何でも反対するのが組合員)で私を知っていたという。私はその奥さんの記憶はまったくないが、かなりの改善の反対派だったようで、Sさんに事実と違う情報をしこたま注入したようだ。そのために私に反発していたことが伝わってきた。そこで2月に本社の幹部のKさんと共に、Sさんを食事に誘って彼を退社するように仕向ける作戦を練っていた。

当日の朝にSさんをディナーに誘ったら、出かけるという返事をもらった。夕方になってから何か私の心の変化があり、辞めさせるよりも説得工作をしてみて様子を観てからでも遅くはないと感じた。そこで通訳のCさんと本社のKさんと相談して、作戦変更をすることにして様子を伺うことにした。少し遅れてきたSさんが、遅れたことを謝罪したが珍しいことだった。そこからゆっくりとこちらのやりたいことを説明しながら、Sさんの協力でこの改善は大きく変化することを期待させるようなことを繰り返し説得していった。すると段々とSさんが本音を出すようになってきた。人間関係のことも少しずつと、解きほぐれるようになってきた。食事が終わるころには、Sさんはまったく別人のような表情になっていた。何か吹っ切れた感じがこちらにも伝わってきた。

翌日からは次第にこちらの意図したことをSさんが自ら実施して、しかも部下も巻き込んでの取り組みになってきた。工場巡回は、いつも部下と一緒になって色々と指摘しながら指導までするようになった。そうすると工場は変化し、段々と規律ある職場になってきたのだ。規律ができると各指標も成果が顕著に現れるようになるので、ますます天使のサイクルが目に見えて回りだした。人は考え方が変わると行動が変わってくるものだ。これほど短期間にしかも劇的に変わった人は記憶にないほどだ。でも今までに猛烈な反対をする人ほど、熱心な信者になることは非常に多く体験してきている。考え方の方向を修正してあげる手立てをすることが、コンサルの仕事だとも思えるようになってきた。

反対派がいる!これはラッキーと思うと、その人は大抵賛成派になってしまうものだ。以前いた会社では当初クレームがあると逃げていたが、ある時期からクレームがあると大歓迎だと180度考え方を変えることができるようになった。クレームがあると直接お客様の現場に無条件に入ることができる。しかも現物を見ながら実際作業しているオペレータの方と話もでき、最後は打ち解けて逆に改造商品や新製品の話までできるように、話を持っていくことができるようになったからだ。クレームを逆に商売に結びつけることができ、クレームが楽しみになった時代があったことを思い出す。仕事は楽しくできるのだ。

初めての遅刻

 この工場では3日間と2日間の2つの日程が組まれていたが、5日連続と勘違いして、3日目はいつもの8時半始まりかと思って訪問した。8時5分に会議室に行くとメンバーが既に待ち構えてレッドカードを持っていた。ハッと気づいたが既に5分の遅刻になってしまった。

タクシーが来ないので遅刻することなど自分以外の要因での遅刻は数回あったが、今回が12年間で始めての遅刻になった。Cさんとのコンビは12年になるが、彼も自らのミスでの遅刻は初めてのことだったと非常に悔やんでいた。人には時間厳守を厳しく伝えていたが、今回は大恥をかいてしまった。これも教会呪いなのか。事務所のちょっとした手配ミスが、とんでもないところまで響いてしまった。

ユースホステル発祥の地

 このヴェアドールの隣の町が、ユースホステルの発祥地であるアルトナであった。この工場に入る手前に「ALTERHEIM」と表示されていたので、「何だ!すぐ隣にある町はこんなに近くか?」とCさんに言ったら、「これは老人ホームですよ」といわれ大笑いになってしまった。アルトナをアルターハイムと聞き間違えたのだ。帰りの電車から、1912年に移り変わった立派なアルトナ城を見ることができた。発祥の1909年の100年祭が2年前に盛大に行われたという。