ニューヨークの風〔肥和野佳子〕
ニューヨークの風15(2010.3.15)
パヴァロッティ
冬季オリンピックというと、2006年のトリノの開会式で、パヴァロッティが歌ったことを思い出す。パヴァロッティはその翌年2007年9月にすい臓がんで、71歳で亡くなった。 トリノ・オリンピックの開会式で歌ったときは元気そうだったし、まさかそんなに早く亡くなってしまうとは思いもしなかったのでとても残念だった。
彼を最後に見たのは2004年3月13日、ニューヨーク、メトロポリタン・オペラ・ハウスでのMET引退公演。プッチーニのトスカで、カヴァラドッシ役。 このMET引退公演は特別に設定したものではなく、METの通常のオペラシーズンのプログラムの一つとして行われたもので、このトスカも何日間か公演され、私が行ったのはパヴァロッティが本当に最後になる最終日のものだった。
当然満席。METではもう見られなくなるパヴァロッティをひと目みようとオペラファンがおしよせた。 私はそれまでの数年はMETでは天井桟敷の席を定期公演会員席として毎年とっていたのだけれど、たまにはいいかと、この年はちょっと贅沢をしてSide Parterreという2階席の左側舞台サイドに近いボックス席の最前列を確保していたので、舞台もオーケストラも観客もとても良く見えた。
第一幕でようやくカヴァラドッシが出るシーンになって、パヴァロッティが舞台に出てきただけで、歌う前から観客は拍手。 第二幕目、何のシーンだったか忘れたが、パヴァロッティはテーブルの上で顔を伏せているシーンがあって、一旦伏せたのだけど、彼はお茶目にも、ふと顔を上げて観客に向かって手を振って、にこっとしたので、観客が大喜びで一瞬わいた。 オーケストラのメンバーの何人かは、何事だろうと後ろを振り返って舞台を見る。
この日のパヴァロッティの歌のできは残念ながら良くなかった。とてもパヴァロッティとは思えないほど声が響かなかった。もうその数年前から引退がささやかれていたので無理もない。他の歌手たちの出来がとてもよかっただけに彼のできの悪さがきわだって、気の毒な感じがしたが、それでも観客は彼の歌のできなんてどうでもいい、パヴァロッティが出てくるだけでそれでいい、大満足という雰囲気。彼が何を歌っても、何をしても大拍手。
終わって幕が下りて、またあがったとき、METの会場の3階席に巨大な横断幕がでて、「ありがとう、ルチアノ」と書かれていた。METがパヴァロッティの長年の功績にたいして用意したものらしい。 観客はなかなか帰ろうとしない。パヴァロッティも感慨深げに客席を見渡し、なごり惜しんだ。
パヴァロッティは1961年26歳のときに初めてプロデビューして、1968年11月23日にはオペラ界の最高峰ともいわれるMETデビューを果たした。若いころのパヴァロッティのテノールはいまも大変評価が高い。
わたしは1995年ごろまでオペラをあまり見ることがなかったので、彼のことはあまり知らなかったが、オペラファンになって初めのころに買った、オペラ・アリアがたくさん入ったCDを聴いて、彼の声にすっかり魅了された。 テノールはしろうと感覚では誰の声も似たように聞こえるのだが、パヴァロッティの声は、すぐパヴァロッティの声だとわかるほど、個性的な独特の音色がある。
声楽はとくに体が楽器だけに、大物歌手はほとんど天性で生きているようなものだろう。もちろん努力があってのことだが、あのレベルの人たちは天性がなければそこまでにならないと思う。 声楽の世界では、音楽大学も行かなくて、楽譜もろくろく読めない人が、天性の美声で天才歌手として発掘されることがたまにある。そういう人は発掘されて、たった数年で才能を開花させ大物になる。 何年修行しても、ものにならない声楽家は、そういう圧倒的な天性を見ると、自分のふがいなさにいやになってしまうだろうなあ。
そういう私も今はレッスンを受けていないけれど、趣味で声楽を2001年から4年間くらい習った。オペラを聴いているうちに自分で歌ってみたくなったからというのが動機だった。 ピアノやバイオリンは練習に時間がかかってたいへんだが、歌はあまり練習に時間がかからないので、練習が苦痛になるということもなく楽しい。外国語でアリアを歌うと下手でもそれなりにかっこうがつくから不思議。 大人がいまから趣味で音楽をはじめるとしたら声楽がいいかもしれない。
日本人なら中学校のとき習ったイタリアの曲、「帰れソレントヘ」を歌ったことがあるだろう。あれは文部省が学習指導要領で決めた中学音楽で習う、独唱曲。今でも中学校で習うらしい。 わたしのころは日本語だけだったけど、最近は音楽の教科書で「帰れソレントヘ」は日本語版とイタリア語版があって、日本語でもイタリア語でも好きなほうで歌えるようになっているらしい。とてもなつかしい。