ニューヨークの風(肥和野佳子)

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スタインウェイのピアノ

世界最高峰のピアノのブランド、スタインウェイ。日本で売られているスタインウェイはドイツ製が主流だが、スタインウェイはニューヨークの米国製が本家本元だ。1853年ドイツ移民のスタインウェイが、ニューヨークに工場を作り、スタインウェイ・アンド・サンズを設立。そして1880年に、ドイツのハンブルグ工場を設立した。米国の主要なコンサートホールで使用されているコンサート・グランド・ピアノは、ほとんど全部がスタインウェイだ。ニューヨーク・フィルの本拠地、エィヴリー・フィッシャー・ホールのピアノも、カーネギー・ホールのピアノももちろんスタインウェイだ。

「スタインウェイ・ホール」と呼ばれているスタインウェイの格式高いショールームは、カーネギー・ホールのすぐ近くにある。高い天井のロビーにはコンサート・グランドが一台置かれていて、ときどき無料のコンサートが催される。格式は高い店だが、販売の係員はとても親切でフレンドリーだ。ここには新品のピアノが(たぶん)50台くらい常時置いてあり、どれでも気軽に弾かせてもらえる。

スタインウェイの工場は、ニューヨーク市クイーンズ区にあり、ラガーディア空港のすぐ近くにある。クイーンズ区には南北にスタインウェイ・ストリートと名づけられた大通りがあり、その北端に工場がある。マンハッタンの中心部から車で20分くらいのところで、地下鉄でも簡単に行ける。あの天下のスタインウェイの工場がこんな近くにあるとは、初めて知ったときはとても驚いた。

毎年5月中旬の週末の3日間に、「ファクトリー・イヴェント」としてスタインウェイの工場で、中古ピアノの大規模な展示販売会が行われる。私はこのイヴェントに、過去3回行ったことがある。アップライトのピアノから大きなコンサート・グランドまで、様々な種類のスタインウェイの中古ピアノが、180台くらいずらっと並べられていて圧巻だ。こんなにたくさんのスタインウェイのピアノに囲まれたら、ピアノ好きにはたまらないだろう。こんなことは日本では、とても経験できない。音大ピアノ科の学生や、プロのピアニストたちなら狂喜するだろうなあと思う。

日本では1960年代からヤマハやカワイのピアノメーカーが子供向けの音楽教室を全国津々浦々に展開し、小学生の女子の半分くらいはピアノを習ったことがあるのが普通だろう。驚くほど日本では音楽教育が、発達していると思う。米国ではお稽古事としてピアノを習うのは、ごく一部の人であまり多くはない。たぶん平均すると10%以下かと思う。要因としては、レッスン代が高いことが上げられる。米国にはヤマハ音楽教室のようなチェーン化した比較的安価な音楽教室はなくて、個人教授が中心である。初心者から中級者で1時間50ドル程度が相場なので、経済的に余裕がないと、なかなか子供にピアノのレッスンを受けさせるのは大変なのだ。

スタインウェイのピアノは日本では新品を購入する人が多いようだが、米国では中古市場も活発で、新品より中古の方が高いものも少なくない。ヴァイオリンほど大きな個体差はないが、ピアノ一台一台の音色にはそれなりの個体差がある。人によって意見が違うので一概には言えないが、新品のものは弦の張りが強すぎて、新品より10年くらいたった中古のスタインウェイの方が、音が良いと雑誌に書いてあったのを読んだことがある。

スタインウェイなら購入時の価格より値段が下がることはあまりなく、売却時には高く売れるという評判で、投資目的で買う人もいる。日本ではスタインウェイを購入するのは、スタインウェイ・ピアノにふさわしいかなり高度な技量のピアニストがいる家庭である場合が多いようだ。しかしニューヨークのセールスマンの話によると、驚くべきことに、スタインウェイを購入する顧客で、ちゃんとピアノが弾ける人は10人に1人くらいだそうだ。たいていはお金持ちの両親が子供のためにと言って買うのだけれど、まだピアノを始めたばかりの小さな子供で、主として投資目的で購入するのだそうだ。世界最高峰ブランドのスタインウェイのピアノなのに、意外にもずいぶんもったいない使われ方をしているらしい。

スタインウェイのパンフレットには、スタインウェイ・ピアノの投資効果についても詳しく書かれている。1976年製のスタインウェイは現在3.3倍の価値、1951年製の物は11倍の価値、1926年製の物は22.3倍の価値になっていると棒グラフで大きく描かれていて、「株式投資より確かで良い投資です」とも書かれている。実際、新品のスタインウェイも販売価格が年々高くなっている。売れ筋のスタインウェイのグランドピアノM型では、歴史的な販売価格が1975年5,920ドル、2000年37,300ドル、2004年43,100ドルと書かれてある。それに伴って中古のスタインウェイも高くなっていく。それに現在のスタインウェイは、鍵盤は人工象牙だが、昔のスタインウェイは鍵盤が本物の象牙でできているものもあり、そういう逸品は状態が良ければ極めて高い値がつく。

経済的に余裕のある大人がちょっとピアノを趣味で始めようかと思って、どうせ買うなら投資効果のあるスタインウェイをという人がニューヨークには存在する。ピアノを辞めてしまっても、エレガントな「高級家具」としての価値もある。スタインウェイ・ホールでも、スタインウェイ工場での展示販売会でも、たいしてピアノが上手でもない大人がけっこう楽しそうにピアノを弾いている。それに混じって私もいろんなスタインウェイの試し弾きを、へたくそながらさせてもらって楽しんだ。日本ではとても恥ずかしくてできないことだが、こういうことが気軽にできるのがニューヨークらしい。

日本で新品のスタインウェイのグランドピアノを購入する場合、海外からの輸送料や関税がかかるのでとても高くなる。現在、最低のベビー・グランドでも800万円くらいするらしいが、ニューヨークでは最低ならたぶん40,000ドル(380万円)くらいで買える。銀行にお金を預けていても預金金利は低いし、米国でスタインウェイならブランド力で購入時より値下がりしないなら、半端なピアノを買うより確かに悪くないかもしれない。私には実現はほぼ不可能だが、遠い将来でもいいから、憧れのスタインウェイのピアノを一度は保有してみたいものだ。