ニューヨークの風(肥和野佳子) 第24回
ヴァイオリンのレッスン
私は4年前からヴァイオリンを週に1回、個人レッスンで習っている。子供のころピアノは習ったことがあるが、ヴァイオリンは生まれて初めて。かなりの年齢の大人が初めての楽器を始めるのはそれなりの勇気がいる。子供なら比較的簡単に習得できることが、大人には習得にかなり時間がかかることがある。しかし私は以前からヴァイオリンにあこがれがあった。ヴァイオリン・ケースを持って街を歩くのはかっこいいなあ、ヴァイオリンなんて私にできるかどうかわからないけれど、ちょっとだけでいいから習ってみたいなあと思っていたのだ。
けれど米国には日本の楽器メーカーが扱う音楽教室のように、安価で気軽に参加できるようなシステムがない。いろいろ調べたが専門スクールのヴァイオリン教室のレッスン代は結構高い。個人レッスンよりちょっと安いだけだ。マンハッタンではヴァイオリンでもピアノでも、初級・中級の個人レッスンは、1時間50ドルくらいが相場。子供でも大人でも先生を束縛する時間は同じなので料金は原則的に同じだ。ただ、子供は集中力が続かないのでたとえば40分で40ドルという選択もある。もちろんレベルの高い演奏者向けの個人レッスンはもっとずっと高くて、1時間で80ドルとか100ドル以上の先生もいる。
個人レッスンの先生を探していたところ、たまたまエレベーターで同じ集合住宅に住むヴァイオリニスト(60代の米国人男性)に出くわし、聞いてみるとヴァイオリンのレッスンをやっているという。それで始めたのが4年前。先生のお宅は同じ建物内で、上の階と下の階というだけなので、ヴァイオリンもケースにも入れずに行き来している。ヴァイオリン・ケースを持って街を歩くのは、レンタル・ヴァイオリンをヴァイオリン店で借りるときや、自分のヴァイオリンをメインテナンスに出すときにしか果たしていないが、いちおう満足している。そう大したことでもないとわかったし。やはりなんといっても、先生の家に通う時間も交通費もかからないのはとても便利だ。レッスンの日のぎりぎりまで練習できるので、用事があってなかなか練習時間がとれないときでもなんとか追いつくことができる。
ヴァイオリンは一般に習得がとても難しい楽器と思われているかもしれない。たしかにCDで聴くような、プロレベルの音のヴァイオリンを弾けるようになるのはとても難しいだろう。しかし、個人の楽しみで弾く程度なら、こんなに気軽にできる楽器だったのか、ピアノよりずっと簡単じゃないかとやり始めてからすぐ思った。私が何年か前に、ヴァイオリンを習いたいなあと言ったら、口の悪い実家の母親に、「あんたになんか出来るわけない」と言われたが、そんなことはない。けっこう簡単で楽しい。
ピアノは大きくて楽器そのものが高価だ。しかしヴァイオリンは小さくて家庭で場所をとらない。そして値段の幅がとても大きくて、プロが使うようなものは数百万円くらいはするし、数億円もする逸品もあるが、全く初めての初心者が使うヴァイオリンは、1万円から2万円程度でケース付き弓付きのセットが買える。初心者でも楽器店やヴァイオリンの先生に20万円から30万円くらいするものをすすめられることもあるかもしれないが、レッスンを続けられるかどうかわからないうちに、そんなに高いものを買う必要はないと思う。続ける気持ちが固まってからそれなりの価格のものを買えばよいことだ。
ちなみにわたしが最初に買ったヴァイオリンは先生が見つけてくれたものだが、150ドルのセットだった。それには1年くらいで物足らなくなって、その後1年間ヴァイオリン店でレンタルのヴァイオリンを使った。900ドル相当のヴァイオリンで、レンタル料は月額35ドルだった。それから現在使っているヴァイオリン(2400ドル)を先生と一緒に探して買った。弦を指で押した感触が弾きやすいし、まろやかな音がして、とても気に入っている。
米国ではレッスン代が高いせいか、ピアノもヴァイオリンも日本と比べると習っている子供はとても少ない。日本では特にピアノは女の子なら一度は習ったことがある人がとても多く、一般的な楽器だが、米国では一部の子供以外はピアノを習ったことがない人が結構多い。日本の義務教育での音楽教育も、米国と比べるとレベルが高くて、中学卒業までに誰もが楽譜の読み方や、ハ長調だのイ短調だの一応習うし、クラシック音楽の歴史も習う。
米国では楽譜を読めない大人が多く(て)、大人向けに楽譜の読み方を教える音楽スクールのクラスがあって、ドレミから教えている。そもそも米国の学校教育で、音楽はドレミで教えないらしい。歌はハミング的な感じでメロディーを教えるらしくて、日本のようにドレミで歌ってから歌詞に入るのとは違うらしい。多くの米国人は、ドレミはミュージカルの「サウンド・オブ・ミュージック」の歌で初めて知ったと言う。ヴァイオリンの先生にもドレミファソラシドではなく、CDEFGABCでいつも言われるので、Bと言われても、いまだにピンと来なくて「えーっとなんだっけ、Bはシかぁ」とか一瞬遅れてしまう。
ヴァイオリンを始めて気がついたことだが、子供にとって、ヴァイオリンはピアノより結構扱いやすいのではないかと思う。というのも、ピアノは大人も子供も同じ大きさのピアノを弾き、子供サイズのピアノは存在しないが、ヴァイオリンには子供サイズのヴァイオリンが存在し、体の成長に合わせた大きさのヴァイオリンを使う。ヴァイオリンのサイズは分数表示で、大人のサイズは4分の4。子供は4分の1とか4分の2とか、弓もそれに合わせて短いものを使う。大人は男も女も4分の4なのだが、あまり流通していないけれども、体や手が小さい女性用に実は4分の4よりやや小ぶりのサイズのヴァイオリンも存在する。
ヴァイオリンはピアノより特に楽譜が簡単だ。ヴァイオリンの楽譜は、ピアノで言うなら、右手一本で、それも和音がほとんどなく単独の音符を追って弾くだけので、ピアノの初歩の楽譜と似ていて、えらく単純に見える。なにせピアノは右手(主旋律)と左手(伴奏)があるので、あえて言うなら一人でヴァイオリンとチェロを弾いているようなものだ。それに和音だらけで、楽譜に音符の数が多く、一瞬にしてどの鍵盤とどの鍵盤を弾くのか、判別するのにハイレベルのスキルが要求される。
ヴァイオリンは楽譜が簡単なので、わりと初心者の早いうちから、バッハ、ヘンデル、モーツァルト、ベートーベンなどの曲を使って練習するのが楽しい。下手でも音楽がいい曲なので弾いていて気持ち良くなる。ヴァイオリンを始めてから半年しかたっていないのに、もうこんな曲を弾いてもいいのかとうれしくなる。
それに比べて一般的にピアノは、バイエルやチェルニーといった練習曲ばかりやらされる苦行期間が長くて、一定のレベルに達しないと、そういう有名作曲家の美しい曲へはなかなか進めないので、そのうちに苦行がいやになる。もっとも、大人に教えるピアノは、本人がこれから音大受験するわけでもないので、有名作曲家の曲を簡単にアレンジした楽譜などを使って、初心者でもピアノを楽しめるように工夫されているらしいが。
ヴァイオリンはピアノのように正しい鍵盤を押したら正しいピッチの音が出るというわけではなく、自分で音を作らなければならないので、ある程度の音感と耳が良くないといけない。絶対音感は言語を覚えるのと似ている。5歳以下の小さい子供なら訓練すれば、約9割の子供に絶対音感がつくそうだが、年齢が上がるとだんだん難しくなり、一定の年齢を超えるとほぼ無理らしい。しかし、年齢が上がっても相対音感は訓練である程度つくようなので、大人は相対音感を頼りにするしかない。
私は、相対音感は多少あるが、絶対音感はない。ピアノを多少やっていたおかげで楽譜は読めるのでその苦労はないけれど、ソルフェージュは苦手。全く知らない曲を、楽譜を見ただけで口ずさむことはできない。ピアノで弾いてみて、音をとったり、CDがでている曲ならCDを聴いて曲の感じをだいたい覚えたりする。
ヴァイオリンは、ただ楽譜通りに弾くだけなら、そしてゆっくりした曲ならそれほど難しくない。いかに音を正しく美しく作るかが大事で、楽譜が単純な分だけ「いい音出してなんぼ」の世界だ。しかし、この正しいピッチで、きれいな音で演奏するというのがしろうとには難しい。1音の4分の1くらいずれていてもなかなか気がつかないことが多いし、弓のあてかたのちょっとした加減で音がずいぶん変わる。弓を弦にあてる角度をほんのちょっと間違えただけで隣の弦もこすってしまったりする。
友達にヴァイオリンを習っているという話をすると、「下手なヴァイオリンってどんなの?」と質問されたことがあった。ヴァイオリンはたしかに生活で身近にあるものではないので、CDで聴くだけとか、生演奏はプロやハイレベルのアマチュアの音しか聞いたことがないという人が多い。自分のまわりにヴァイオリンを習っている人でもいない限り、下手なヴァイオリンを聞く機会もないだろう。下手なヴァイオリンを聞かされている人には、きっと音が微妙にずれているヴァイオリンは気持ち悪いだろうし、響きの悪い音のヴァイオリンも気持ちが悪いと思う。しろうとのヴァイオリンというのはそんなものだ。
ヴァイオリンは声楽ととても似ている。声楽も、右手一本で演奏し、和音が出てこない簡単な楽譜のピアノのようなものだ。そして声楽も自分で音を作らなければならない。たとえば、アヴェマリアをしろうとの子供でも歌おうと思えば歌えるだろう。しかし、オペラ歌手が歌うアヴェマリアと子供が歌うアヴェマリアは全然違う。うまいプロのヴァイオリンと、下手なしろうとのヴァイオリンはそれくらい違う。
わたしのヴァイオリンはまだ子供のアヴェマリア状態かもしれないが、ここまでくるにはそれなりの努力をした。お金もかかっている。子供のころと違って、毎回50ドルを自分で支払うのだし、なんといっても自分でやり始めたことだ。ときどきレッスンをさぼりたいなあと思うことはあるが、上手ではないにしても、巨匠が作曲した曲をまがりなりにも弾けるようになった自分がうれしくもある。楽器を自分でやる楽しみは、作曲家の曲に直接自分で触れることができることと達成感だろうか。
何歳になっても楽器を始めるのに遅すぎることはないと思う。私より年上で定年退職後にピアノやヴァイオリンを始める人も結構いる。コンサートで音楽を体に浴びて感じるのも楽しいが、こうして自分自身が音楽をやるのはまた格別の楽しみがある。もっとうまくなりたい。