ニューヨークの風 第34回 肥和野佳子

 

「9・11同時多発テロ あの時のこと」

 

2001911日火曜日、私はグラウンド・ゼロから直線距離で約3キロ北東の地点にあるマンハッタンの自宅にいた。出勤で家を出ようとしていた夫が「ワールド・トレード・センター(以下WTC)に飛行機が衝突したらしいよ。」と言うので、私はセスナ機が事故でぶつかったのかなあと思った。1945年にエンパイヤ・ステート・ビルに米軍のB25爆撃機が衝突という事故があったのは知っていた。

夫が家を出た後、テレビをつけるとWTCに2機目の旅客機が突入した後だった。衝撃の映像が繰り返し流れる。1機だけならともかく2機ということは事故であるはずはなく、テロだとすぐわかった。そのうち画面がワシントンDCのペンタゴンに切りかわり、そこにも旅客機が突入したというニュースが飛び込んできた。

しばらくして別のチャンネルに移すと、WTCがさっきよりはるかに煙が多くなっていて建物がよく見えない。アナウンサーの言葉で1棟が倒壊したことを知った。しばらくテレビにくぎ付けになっていたが、通りに出ればWTCが直接見えると思って外に出た。すると向こうから来た男性が「たった今、2棟目が倒壊した!」と叫ぶ。私はこの時点で、これは大ごとだ、テレビを見ている場合ではないと認識し、自分自身が非常事態モードになった。心臓が急にどきどきした。

自宅に戻り、あわてて家にある現金をかき集めて大きなリュックを背負ってまずスーパーに買い出しに行った。テレビでマンハッタンに入る橋やトンネルが封鎖されたと言っていたので物資が入らなくなることを懸念した。人より早く行ったので買い物は十分にできた。スーパーから戻るときマンハッタンの南を見るとあまりにも煙が大きくなっていたので、私はダウンタウンが大火事になっているのかと思った。うちもやばいかもしれないと走って家に戻った。テレビをつけると大火事ではなく、ビル倒壊の煙が大きいのだとわかり、ほっとした。

それから日本の米をきらしていたので、それを買いに南に歩いて15分の所にある日本食料品店に向かった。通りに出ると大勢の人が一斉に北へ北へと蟻の大群のように歩いている。私一人がみんなと逆方向の南に向かって歩いているという変な感じだった。日本食料品店で米や缶詰など日持ちのする日本の食品を手に入れ、レジに並んでいると、日本からの旅行者らしき女子大生が韓国人の若い男性に連れられて来た。彼は「この女性はWTC近くにいたのだけれど、彼女は英語がわからないし、僕は日本語がわからない。今何が起こっているのか、どうやってホテルに戻ったらいいのか教えてあげてください。」と店員に頼んだ。

帰り際にエレベーターで彼女と一緒になり、聞くと、彼女は「WTCの展望台に行くつもりでした。そしたらあんなことになって。ビルが倒壊した時は地上の別のビルの軒先にいました。逃げるときに友達とはぐれてしまって。もう何が何だかわからなくて・・・。」と言った。ふと見ると、彼女の頭の後ろ側は粉塵で真っ白になっていた。

家に戻るときは私も北へ北へと歩く大群の一人になっていた。私はリュックを担いでいたし、いかにもWTCやその近辺からの避難者に見えたらしく、赤十字の救援テーブルの前で水を手渡された。なぜかゴムぞうりを売る露店商があちこちに出ている。自宅に戻ると夫が帰宅していた。勤務地はミッドタウンなので無事なのはわかっていた。夫は朝バスを待っていた時、WTC2機目突入時の大きな火の玉を見たそうだ。オフィスが臨時休業になり、帰りは交通機関がマヒしていたので1時間近くかけて徒歩で帰って来たという。通勤靴やハイヒールでは長時間は歩けないので、ゴムぞうりは徒歩帰宅のために売られていたのだった。この日、自宅が遠方の人は帰宅が困難で何時間もかかった。

翌日、マンハッタンの14ストリートから南は封鎖され立ち入り禁止。うちはそれより少し北なので免れた。14ストリートには大きな機関銃をもった軍隊が並んでいて検問がある。運転免許証など自宅が14ストリートより南にあることを証明するものを提示しないと入れない。14ストリートより南では所によって電気・ガス・水道に被害がでていたが、北側では特に問題はなかった。

マンハッタンは14ストリートを境に大きく雰囲気が違う別世界となった。南側は戦地か被災地かという雰囲気で、北側は比較的普通だった。あまり知られていないが、テロ直後の2日間、大通りは車がほとんど通らなかったので、うちの近くの大通りではスケートボードを楽しむ若者もいた。もっと北のアップタウンでは普段通りにレストランで食事を楽しむ人もバーで飲んでいる人もいたようだ。

9月19日水曜日。グラウンド・ゼロのかなり近くまで一般人が初めて行けることになった。この悲しい歴史的出来事をしっかり覚えておくために、この目で現場を確かめようと私は地下鉄で南に向かった。フルトン駅で降りる。この駅はWTCから1ブロック東で、現場から200メートルの至近距離だ。

地上に上がるといきなり軍隊、警察官、そして粉塵にまみれたままの店の窓の日よけが目に入った。すぐ横を見ると、グラウンド・ゼロの方向に黒こげになったビルが見え、その後ろから煙が上がっている。うわっと思った。そこはたしかに戦地だった。グラウンド・ゼロに向かおうとして、ヘア・キャップをかぶって、ガスマスクを装着中の女性警官。

1ブロック南に歩くと、ツインタワーの瓦礫が見えた。煙の匂いだけでなく、きつくはないが何かちがう匂いがした。ひょっとして死者の匂いだろうかと思った。もしWTCに突っ込んだ旅客機に核爆弾や生物化学兵器が仕掛けられていたら、私も生きていなかったかもしれない。

こんな近くまで来られるとは思わなかったので少し驚いた。テレビでよく映るツインタワーの残った足元の部分もよく見えた。この周辺で働く人たちだけでなく、プロ・アマのカメラマン、行方不明者の家族、私のような一般市民、観光客などで狭いストリートが混んでいた。警官が「立ち止まるな、キープ・ゴーイング!キープ・ゴーイング!」と叫ぶ。

 

あたりの道は一応粉塵を取り除いているが、表面が白っぽい。空気が悪くマスクをして歩いている人もいた。マクドナルドは悲惨さを伝えるためか、わざとウィンドウの灰を落とさず、そのままにしていた。ウィンドウの灰にたくさん指で書かれたメッセージがあった。

あまり長くいる気がしなかったので15分くらいいただけで、地下鉄に乗ってユニオン・スクエアまで戻った。週末よりさらにろうそくや花束が増えていた。地下鉄で数駅数分前まで私は戦地にいたのに、そこは日常のマンハッタンのままの賑わいだった。

うちに歩いて帰る途中、ベス・イスラエル・メディカル・センターのそばを通った。行方不明者の写真入りの張り紙が数日前より増えていた。ひとつひとつ見ていくと日本人のものがあった。富士銀行の12人、野村総合研究所の2人、米国企業のCantor Fitzgeraldの1人。富士銀行の12人のものはスナップ写真を引き伸ばしたもので多くは笑顔で人柄が伝わるような、幸せそうな写真だ。赤ちゃんを抱いている写真もあった。野村総合研究所の2人の分は家族から取り寄せる写真が間に合わなかったのかパスポートの証明写真だった。Cantor Fitzgeraldの人の分はとても精悍な顔をしていた。日本人の張り紙を見たのはその時が初めてだったのでつい、食い入るように見てしまった。

実は私は仕事で、同時多発テロで亡くなった方々10名くらいの2001年の米国所得税確定申告の仕事を担当したことがある。9.11で亡くなった人たちには連邦所得税法上特典があり、税が免除になった。申告書にはDeath Certificate(死亡証明書)のコピーを添付しなければならない。みな日付は2001911日。なんともいえない重い重い仕事だった。

あの日から10年がたった。残念なことはごく一部ではあるが、同時多発テロは米国政府の自作自演だなどと極端なことをまことしやかにささやくやからがいることだ。米国NY在住者である私としては、これは許しがたい侮辱・冒涜であり見逃すわけにはいかない。売らんかなの本をうのみにすることなく、きちんと良識を持って考えてればわかることだ。戦争を仕掛けるために、あんな多数の自国民の犠牲者を出して、莫大な費用がかかりすぎるようなばかげた作戦をとる国が世の中のどこにあろうか。他国にとっては基本的には他人事なのかもしれないが、当事者の気持ちを配慮すべき。あれから月日がたって、だんだん風化しつつあるようでも、米国市民やNY市民の心には大きな爪痕が残っているのだ。