ニューヨークの風 肥和野佳子
第35回
ゲルギエフとマリインスキー・オーケストラ
10月5日、カーネギーホールのオープニング・ナイト・ガラ・コンサートに行った。今年はロシアのマエストロ、ヴァレリー・ゲルギエフ率いるマリインスキー・オーケストラ。ゲストのチェロ独奏はヨーヨー・マ。演目はShostakovich Festive Overture、Tchaikovsky Variations on a Rococo Theme、Rimsky-Korsakov Scheherazade。
会場はレセプション付の特別な高いチケットを持った観客は、男性はタキシード、女性は華やかなロングドレスもちらほら。私は普通の席だけれどいつもよりおしゃれをして行った。ステージの背景には秋のオレンジ色の花が飾られている。1曲目は、これからカーネギーホールで始まる今シーズンの音楽をどうぞお楽しみくださいと言うにふさわしい、わくわくさせるような快活な短い曲。
ヨーヨー・マのソロ
2曲目はチェロ協奏曲。チャイコフスキーのロココ主題のヴァリエーション。ヨーヨー・マの演奏はいつ聴いても素晴らしいが、この日の演奏は最高に良かった。何と言うかヨーヨー・マの呼吸、息づかいがひしひしと伝わってきた。彼を見ていると魔法の世界に引き込まれていくようだった。アンコールはチャイコフスキーのアンダンテ・カンタービレ。観客になじみのある曲で、これがまたハートがとろけるような演奏で、生の音が体にしみた。
何年か前にニューヨークに音楽留学していた友人(日本人女性ピアニスト)が「先生に呼吸しろって言われるんだけど、ピアノで呼吸するってどういうことかよくわからなくて…。」と言っていたことがあった。私もその時わからなかった。しかし、ヨーヨー・マのあの演奏を見て、なるほど「呼吸する」とはこういうことかと実感した。
3曲目は有名なシェヘラザード。スラブ系のマリインスキー・オーケストラならではの曲。コンサートマスターの独奏部分が光っていた。マリインスキー・オーケストラは、以前はキーロフ・オーケストラと呼ばれていた。ゲルギエフもオーケストラ・メンバーもたぶんすべての人がロシア語圏出身者なのだろうと思う。世界の有名オーケストラには東洋系の演奏家の進出が激しいが、東洋系の顔をした人は一人しかいない。それもたぶんアジア地域に近い旧ソ連圏の人と思う。
オープニング・ナイト・ガラのレセプション
カーネギーホールの創立は1891年。今年は120周年記念でチャイコフスキーの特集が組まれている。当時オープニングで指揮をしたのは、なんと生きたチャイコフスキー(1840-1893)だった。1891年というのは明治時代で日清戦争が起こる2年前。チャイコフスキーが生きていたのはそんなに遠い昔のことではないのだ。
私はオープニング・ナイト・ガラに続いて、10月9日のマリインスキー・オーケストラのコンサートにも行った。前半はチャイコフスキーの交響曲第2番。後半は交響曲第5番。この日のコンサートでは前半でちょっとしたハプニングがあった。
レセプションでのゲルギエフ
私はコンサートに行くときはいつも双眼鏡を持参する。オーケストラにどんなメンバーがいるのか、どんなふうに演奏するのかじっくり見るのが好きだし、指揮者の楽譜をのぞくのが好きなのだ。いつも不思議に思うのだが、指揮者の楽譜は普通の楽譜と違う。演奏者の楽譜のようにちゃんと音符が全部は書かれていないようだ。双眼鏡で見る限り、4小節の縦線やら、スラーや休止記号のようなものが見えるがあまり音符らしきものは見えない。総譜は本来あるのだろうけれど、それを自分で指揮しやすいように書きなおして作ったものなのだろうか?指揮者の楽譜を間近で見たことがないのでよくわからない。(多分コンデンス譜)
私は始まる前、双眼鏡のピントを合わせるためステージを見た。右にチェロ、ダブルベース、チェロの横にヴィオラ、左に第一バイオリン、第2バイオリンの近代的で一般的な楽器配置。指揮者の譜面台が中央にある。しかし楽譜が置かれてない。譜面台があるということは暗譜ではないのだろう。指揮者が手持ちで持ってくるのだろうか?普通はそういうことはしないものだがと思っていた。
オーケストラは、始まる前、メンバーがステージに三々五々ぱらぱら集まってくるカジュアルなスタイルの場合と、始まる前にはメンバーは一切ステージに出ず、きちんと整列して入場するスタイルがある。マリインスキー・オーケストラは後者で、コンサートマスターを先頭に整列して入場。
そしてゲルギエフが大きな拍手を浴びながら登場。手に楽譜は持っていない。演奏がすぐに始まる。数分して、第2バイオリンの最後列の男性が演奏をやめ、席を離れてステージから出ようとするが、鍵がかかっているのかドアが開かない。ノックしても開かない。私は彼のバイオリンの弦が切れたのかなと思った。彼はあきらめて席に戻った。そしてまた普通に演奏し始めた。あれ?演奏できるの?双眼鏡でよく見ると弦は切れていない。弓も大丈夫そうだし、何だったのだろうと思った。
第2楽章はトランペットの一人がステージから出て楽屋から遠い小さい音で演奏する場面から始まる。ステージに戻るとき、彼は指揮者の楽譜を手に持っていた。彼はそれをバイオリンの最後列に手渡し、前へ前へと順送りでようやくゲルギエフの譜面台に。これを見た観客は、声は出さないがいっせいに苦笑。私の隣の男性は体を大きく前後にゆすって笑いをこらえていた。
この間、オーケストラは何事もなかったかのようにスムーズに演奏を続ける。ゲルギエフは指揮を続けたまま、いきなり楽譜を開いて今どこをやっているのかよくわかるものだなあと思って見ていた。しかし、そのうちゲルギエフは楽譜のページを手でめくって前に進めたり、後ろに戻したり何度かしていた。どうやら丁度のページが開けていなかったらしい。そのうち安定した。
チャイコフスキーの2番はあまり演奏されない曲なので、これを暗譜で振る指揮者はまずいない。ゲルギエフはほとんど暗譜していたのだろうけれど、完璧主義的な彼のこと、楽譜を手元に置いておきたかったのだろう。それにしてもあるはずの指揮者の楽譜がないまま演奏が始められて、これといった問題もなく落ち着いて美しい音楽を奏でるマリインスキー・オーケストラもゲルギエフも大したものだ。
ゲルギエフは自分が指揮を間違えないか、オーケストラ・メンバーも自分の出番のタイミングを間違えないか、本心ではひやひやだったのかもしれない。私はチャイコフスキーの2番はよく知らないので、ひょっとしたらミスがあったかもしれないが気がつかなかった。それにしても指揮者の楽譜を譜面台に置くのを忘れた係りの人は、あとでゲルギエフにこっぴどく叱られるのだろうなあと思った。
こういう指揮者の楽譜の置き忘れを見たのは2回目だ。初めては数年前のベルリンフィル。サイモン・ラトルがステージに登場して、「楽譜がないので取りに戻ります。」と観客ににこやかに告げて一旦楽屋に戻ったことがあった。観客はそのときどっと笑った。
ゲルギエフはなぜ楽譜がないまま演奏を始めたのだろう?ひょっとして譜面台に楽譜が置かれていないことに気がつかないままタクトを振ってしまったのか?それにしてもどうやってバイオリンの最後列の人に楽譜を取って来るように合図したのだろう?コンサートマスターに告げてそれを後ろへ後ろへと伝言したのだろうか?バイオリンの人も演奏しながらよくそんなことができるものだ。
第2楽章に入る前にゲルギエフが自分で楽譜を取りに行くこともできたと思うけれど、そういうことはしなかった。一旦ステージに上がったら指揮者は場所を離れないというのが彼の美学なのだろうか?楽譜なしでも4楽章全部問題なく指揮できる自信があったということなのか?
後半のチャイコフスキーの5番は有名な曲なのでゲルギエフは暗譜。最初から譜面台は置かれていなかった。マリインスキー・オーケストラの演奏は切れがいい。それでいて情緒豊か。5番を聴いていて、変なたとえだが私は「のだめカンタービレ」で時々出てくる、音楽が飛び出すようなアニメシーンを思い出した。なんというか目の前に音楽が見える気分だった。
演奏が終わって観客からブラボーが飛び、スタンディング・オベーションが続く。いつ見てもオーケストラ・メンバーのこの時の晴れやかな顔はいいものだ。カーネギーホールと深い縁のあるチャイコフスキーも、ゲルギエフとマリインスキー・オーケストラにこんな風に演奏してもらって満足だったろうと思う。