ニューヨークの風 第37回
「ジュリアードを楽しむ」
ジュリアード (The Juilliard School)は世界の有名な音楽家を数々を生み出してきた超名門の音楽大学。音楽を志す人にとってはあこがれの学校。ジュリアードはマンハッタンのリンカンセンター(メトロポリタン・オペラハウスやNYフィルの本拠地エイヴリー・フィッシャー・ホールのある所)に隣接する。ジュリアードは音楽で有名だが、演劇とダンスの学部もある。
ジュリアードには大学、大学院のほかにプリ・カレッジと呼ばれる大学には満たない年齢の子供が通う音楽学校も併設されている。評判によると、このプリ・カレッジの生徒は極めてレベルが高くて、大学の学生よりレベルが高い子が何人もいると聞く。
そんな中で、ジュリアードには知る人ぞ知るEvening Division(夜間部)がある。ここでは音楽好きな普通の一般成人向けの授業が行われる。音楽史、音楽理論、楽譜の読み方、オペラ鑑賞のガイド、指揮の基礎、作曲の基礎、アレクサンダー・テクニックなどの授業や、ピアノや声楽の実技を学ぶことができる。ほとんどの授業はノン・クレジット(単位なし)の授業だが、いくつかはジュリアードの単位が取れるものもある。Evening Divisionの先生はジュリアードがEvening Divisionの為に雇った先生たちで、音楽家を目指す昼間のジュリアードの教授陣とは違う。
このEvening Divisionの授業はジュリアードの学校内で行われ、実技系の授業を取る人は授業料の他に一学期75ドル追加で払えば、本物のジュリアードの学生が使う練習室を時間に制約はあるが使うことができる。ちなみにジュリアードのピアノは練習室のピアノもすべてスタインウェイのピアノだ。図書館も30ドル追加料金を払えば使うことができる。カフェテリアも自由に出入りができる。まさに普通の大人が、ジュリアードの学生や教授たちと同じようにジュリアードの空気を吸い、校舎内を自由に歩くことができ、同じカフェテリアで食事もできて、ジュリアードに触れられる夢のような機会を与えてくれる。
ジュリアードとしてもEvening Divisionでの授業料収入は重要な営業収入になっている。ジュリアードは学生数が少なく、大学・大学院生合計で800人程度しかいないので本来の学生が払う授業料だけでは経営が困難なのだ。音楽好きな大人を囲っておけば一部のお金持ちからの寄付金も期待できるし、音楽ファンのすそ野を広げる意味で、大事な事業となっている。
私は数年前にEvening Divisionの授業を受けたことがある。最初は音楽史とスコア・リーディング(楽譜の読み方)を取った。ジュリアード体験をしたかっただけなので何でもよかった。音楽史など講義形式のクラスはオーディションも面接もなく、ただ登録して授業料を払えば誰でも入れる。スコア・リーディングは面接でどのくらい読めるかチェックされるだけ。9月からの秋学期と1月からの春学期の2学期制で、授業は週1回で、私がとったクラスの授業料は現在一学期500ドル。私が行っていた頃はもっと安かったが毎年授業料が上昇している。
音楽史の授業は毎回講義とCD鑑賞でディスカッションをする。生徒は音楽好きな中高年の男女で1クラス20人くらい。先生はオペラが専門らしく、10年かけて作曲した自作のオペラがその年にManhattan School of Music(この学校も大変評価の高い音楽大学で特にオペラ部門はレベルが高い)で上演されることになり、授業とは別に私はそれを見に行った。そのオペラを作曲した本人のサインがほしくて、先生にサインを求めると、あまりそういう経験がなかったようで、すごくうれしそうにサインをしてくれた。
スコア・リーディングの授業は全体として簡単すぎて物足りなかった。日本人は子供のころピアノを習ったことのある人が多いし、学校でも音楽の授業で楽譜の読み方の基礎は習うのでも元々だいたい読める。しかし米国人は楽譜を全く読めない人もいるので極めて基本的なことから始まった。音程とリズムをトレーニングする宿題が毎回出て、それは音感を養うのに役立った。
別の年には声楽の実技の授業を取った。実技系の授業料は少し高くてこのクラスは現在一学期625ドル。実技の授業にはオーディションがあり、これに合格しなければ授業を取ることはできない。オーディションといっても私が受かったくらいだからたいして難しくはない。うまい人は音大卒レベルで下手な人は私のように趣味で声楽を習ったことがある程度の人。
オーディションでは自分で歌いたい曲を2つ持って行って楽譜を見ながら先生の前で歌う。ピアノ伴奏はその場で楽譜を渡せば、ジュリアードのピアノ科の学生が初見でいとも簡単に弾いてくれた。ドイツ語の曲を2曲持って行ったが、「イタリア語の曲はないの?」と先生に言われ、「ありますよ。」と余分に準備していたイタリア語の曲も歌って、気に入ってもらい合格できた。
声楽の授業にもいろいろあるが、私が取ったのは声楽のコーチングをしてくれるクラス。1クラス18人くらい。一人10分くらいで順番にみんなの前で歌う。生徒全部の歌を聴くと180分もかかるので前半参加と後半参加に分けられる。毎回違う曲を歌うことになっていて、自分のレパートリーを増やすことができる。人の歌を聴くこともなかなか良い勉強になる。生徒は通常これとは別に並行して声楽の個人レッスンを受けて準備してくる。
生徒のレベルは様々でプロになれそうなほどうまい人も中にはいるが、声楽が趣味という人が中心。私は下手な方で18人中私より下手な人は一人か二人しかいなかった。日本人は私の他にもう一人いて日本の音大卒の男性だった。一番うまかった若い女性はその後、Manhattan School of Musicの大学院声楽科に合格した。
学期の最後の授業は発表会になっていて、ジュリアードの舞台リハーサル室(広い部屋で客席が少しある)で行われる。誰が何を歌うと書かれた簡単なプログラムが作られ、生徒の家族や友人を招待し、生徒は正式に着飾って歌う。一人二曲歌ってもよいのだが、私は自分が下手なのはわかっていたので一曲だけ、ヘンデルのオペラ、「リナルド」からアリア ”Lascia ch’io pianga” を歌った。
ヘンデルの曲は人間の自然に沿う感じで極端に高い音域は出てこないのでメゾ・ソプラノの私には歌いやすい。歌は下手なのだから歌い終わった後のお辞儀くらいはきれいにと思って、ダンスの先生をしている友達にかっこいいお辞儀の仕方を教えてもらって練習したので、お辞儀だけは私が一番うまかったかなと思う。出番は私が最初だったので早く済んでゆっくり楽しめてよかった。
私はメトロポリタン・オペラを何度も見ているうちに自分も歌いたくなって、10年前に声楽を始めて、4年間個人レッスンを受けたことがある。ジュリアードの夜間部のクラスもその頃のこと。習っていた先生が日本に帰国してしまったので声楽はここ6年くらいやっていない。その後ヴァイオリンを習い始めたので、今はそれで手いっぱいで声楽をする余裕がない。ピアノは子供のころ少しやったが、声楽もヴァイオリンも若い頃やったことはなく、生まれて初めて始めたことだが音楽は楽しい。声楽は、歌いすぎは喉に良くないので、ピアノやヴァイオリンなどの楽器と違って練習時間があまりかからないのもよい。また何年かしたら声楽をもう一度やりたいと思っている。
注/アレクサンダー・テクニーク(Alexander Technique)とは、心身(すなわち自己)の不必要な自動的な反応に気づき、それをやめていくことを学習する方法。頭-首-背中の関係に注目することに特徴がある。一般には、背中や腰の痛みの原因を改善、事故後のリハビリテーション、呼吸法の改善、楽器演奏法、発声法や演技を妨げる癖の改善などに推奨されることが多い。