今月の執筆者

福田泰雅

人の成長を考える

若かりし頃、人が幸福に生きるためには「知識」が必要だと教えられた。「試験に出るから覚えるように」と念を押され、知識を詰め込んできた。覚えることを放棄する選択肢はなかった。それが幸福への道だと皆が信じていたからだろう。覚えることが目的になっていた。あるいは、問題の解き方を教えられた。知識を使い、問題を解決するための技術である。それぞれの問題に対する回答の技術である。「なぜ」よりも先に結果を出すための方法が存在した。世界のすべてには答えがあり、それをいかに吸収するのかが問われた。それが「知識」と「技術」を学ぶ理由であった。

しかし、音楽の世界は異なった。小学5年生の時、遊び仲間から「クラシックの曲の中ではどの曲が好き?」と尋ねられた。それまでもピアノを弾いていたしクラシックの曲も聴いていたのだが、その時、生まれて初めてクラシックの曲を意識したのだった。少し考えてから「ベートーベンのピアノソナタ『悲愴』」と答えたが、その日からクラシック音楽は自分にとって特別な存在となった。

あれからどれほど音楽に出会ったのかわからない。演奏として曲の本質に近づきたいと思い、その曲に関してあらゆる情報を収集した。その曲ごとに「こうありたい」と願い、自分の拙い技術に苛立ち、絶望し、至福の時を味わい、…それは今でも尽きることなく続いている。失うものもあったが、得たものの方が多いように感じる。他者を感じ、忍耐し、ともに喜び、勇気を奮い、自分を振り返り批判的に物事を見ることや、人間と音楽の不思議な関係に驚いた。音楽を媒介として様々な人と出会い、多くを教えられた。

自分は音楽を通じて成長したのだと断言できる。その生き方は幸福かと問われれば、躊躇なく「はい」と答えられる。

現在、乳幼児期の育ちにかかわる仕事に従事しているが、そこで毎日目にする子どもたちの成長は、大人から知識や技術を教えられたからではない。私が今まで経験してきた学びと同じ学び方をしているのだ。

ところが大人はいまだに幸福になるための知識や技術がセットとして存在し、それを大量に人より早く身に付けさせれば「幸福」になれると信じて疑わない。子ども自身が外に働きかけながら発達する学びの主体であることに気が付いていない。子どもは、結果に自分を押し込めるのではなく、自分で「幸福」になるための練習をしているのだ。人が成長しようと背伸びをしている姿から学び、援助するのが教育であろう。(女声コーラスまどか)