今月の執筆者

 桑 田 幸 人

一.個展の挑戦

 昨年は、新年早々の「倉文協のギャラリーとして記念すべき第一回企画展をやらないか。」と、計羽孝之会長からお声をかけて戴き、軽率にもお引き受けしてしまいました。先輩諸氏の多い中、未熟な私の個展で良いのか、事の重大さに気付、悩んだ日々でもありました。ポスターは刷りあがり、時は経過していきました。

 地元では、地域の活動をさせて戴き、ここ一年は創作活動も疎かにしており、戸惑いを感じる日々でもありました。そんな未熟な私に個展の機会を与えて戴き、支えて下さった倉文協の計羽会長をはじめ、スタッフの皆様のご好意とご指導の賜と感謝いたしているところです。

 初日には、中野先生の尺八と兼田先生のピアノでのミニコンサートで個展を盛り上げて戴きました。あの時の「春の海」の音色が脳裏に焼き付いております。ありがとうございました。初日から多くの方々にご高覧を戴き、元気を戴きました。

 私の個展への挑戦は、この回が二回目です。

 第一回目は、平成二十一年一月に開いた百花堂様での個展でした。その経緯は、坂田秀樹先生からの個展をやってみないかとのお誘いでした。素人である私が個展など考えてもいませんでした。お断りもしました。日現会の南場兄一先生にもご相談しました。両先生に支えられて実現したものでした。私は、当日までの蓄積していた作品だけでポスターから、会場展示まで総ておんぶにだっこの個展開始となりました。

 南場先生から紙上に揚げて戴き、それをきっかけに大きくマスコミに取り上げられ、初日から多く方々にご高覧戴きました。「テレビで個展を知り駆けつけた。」と、友人。「元部下の個展だから。」と、多くの友達と鳥取から駆けつけて戴いた何十年ぶりにお会いできた元上司。「浦富海岸を毎日見ながら生活をしています。浦富の作品を見に来ました。」と、浦富の住職さん。遠路島根県の版画家の方々。「国の機関で牛に関わって仕事をしていました。元気な牛が見たくて来ました。」と、杖を片手に家族に見守られながら来て戴いたご老人。…多くの方々との出会いに驚きました。

 「牛しか知らない桑田が個展を。」そんな「興味津々」で駆けつけて戴いたのかもしれません。しかし、版画だけではなく、人間としての充実感、これまでに経験しなかった心地よさ、そんな方々が私の大きな宝物であり、また、今後の活動への自覚と夢を大きく膨らませ、自分では気が付かなかったもう一人の自分を発見させて戴いたように思える今日です。

二.私の創作活動

 活動と言った大それたものではありません。二十数年前、県の拝命を受け、受精卵移植に取り組みました。未だ、世界的にも技術の確立も出来ておらず器具機械も自分で作ることからでした。

 そんな中、出会ったのが公民館活動の版画教室でした。はがきサイズの小さな版画でしたが彫っている時の無心の境地が病んでいる心を癒してくれました。また、私の最初の師である池本 正先生との出会いでもありました。小さな作品を「ええなあ〜」と褒めちぎられるのです。定年後、再度版画を始めたのは、「褒めて育てる」池本マジックにかかっていたからだと思っています。

 さて、私の版画創作として取り組んでいることは、日常生活の中で何か感動した事象のそのままの感動を忠実に表現出来るか、その感動を多くの方々に、共有して頂ける作品を、とチャレンジしています。その感動を伝える場が展覧会であり、個展であると考えています。そこに一人でも賛同者があり、ご高覧戴いた方々と友人となり、多岐にわたり知識と話題を戴き、やがては変身していく自分に気付き、自分を成長させてくれる起点の場として位置づけ、背伸びせずに着実に一歩ずつ歩めることを確信しております。

三.感謝 

 版画をとおして多くの方との出会いを戴きました。こんなに多く人との出会により私自身の生活が変わり、良き先生、先輩、同僚に恵まれとても感謝をしている毎日です。

 私が自分の版画に疑問を持ち、「版画になっていないのでは?」と、落ち込んでいる時がありました。そんな時、お手紙を下さり、勇気を下さった南場先生。私の版画を版画だと認めて個展を強く勧めて戴いた計羽先生。坂田先生。三人の先生方との出会いが無かったら「桑田幸人の版画」は消滅していたでしょう。 

 感謝・感謝・感謝です。

四.大きな転換

 昨年から倉吉市文化協議会のスタッフの一員に参画させて戴いたことです。新しい分野にふれ、私の人生に対する取り組み、視点、価値観の大きな転換と言っても過言ではありません。スタッフとしての自覚を持ち、少しでも貢献出来るよう日々努力を惜しまず参画したいと考える日々です。「ええなあ〜変身桑田!※○」