リレーエッセイ

今月の執筆者 中野 隆  尺八のこと(4)

 どんな芸術でもそうだと思うのですが、まず真似ること。すばらしい作品を、すばらしい演奏を真似ること、模倣することが大切だと思っている。いつの頃か一日千里の道を走る馬の真似をすれば一日千里の道を走る馬なんだと思うようになった。

 どこかで読んだはずだと思い、調べてみた。そうすると、徒然草の第八十五段に「・・・驥(き)を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒(ともがら)なり。」と載っていた。徒然草を読んで千里の馬の真似をすることを思うようになったのかもしれません。現代の芸術では創造性とか個性とか言われますが私は低いレベルではいわゆる悪い癖としか思っていません。磨いて、磨いて、磨いた後に光るもの、それが個性ではないでしょうか。

話はそれますが、徒然草には面白いことがたくさん載っており、兼好法師の人柄がよくわかると思います。このリレーエッセイが載るのは9月だと思いますので、徒然草の第三十二段九月二十日(ながつきはつか)のころを紹介します。旧暦ですので現在では十月の中旬でしょうか。月の出は夜の十時過ぎで、出てくる月の上の方が欠けていて、もう少しで半月(下弦の月)になるというような状況です。兼好法師がある人に誘われて朝まで月見をしてまわっていた事が書かれています。興味のある人はぜひお読みください。

真似ること、模倣することが大切だと思う、と書きましたが本質を見つめ、つかむ事、本質を模倣する、これが難しい。自分の力量以上に本質をつかむことが出来ない。以前にはこれが本質だと思っていたことが、時間が経てば枝葉であったりする。

真似たつもりが、全然真似ていない。よく聞いたつもりが聞いていない。よく見たつもりが見ていない。あくまでも「つもり」で本質を見ていない。それどころか真似ようにもそれだけの技術が無い。これでは救いようが無いのですが、諦めずに努力を続ければ良い。そう思っています。十里でも良いではないですか、百里でも良いではないですか。努力を続けていけば、そう思っています。

ある人にアマチュアの強さについて聞いた事があります。その人は「アマチュアは自分の好きなことを好きなだけ時間をかけてやれる」と言っておられました。確かにプロには納期がありますし、一定の成果を求められます。アマチュアは成果を求めるのは自分自身ですので、何処までも追及できます。

一般的に芸術の世界でも上手なのはプロでアマチュアは下手。でも良いじゃないですか。自分の好きなことを好きなだけやれるのですから。

 

なぜ尺八は根っこを使っているのかという事を聞かれました。何故でしょうか。

いろいろ有るとは思いますが。

一、まず見た目がきれいだという事。尺八の値段はまず見た目が一番の要素。次に良い音がすること。もちろん演奏家は音で選びますが形とか模様で選ぶ人が多い。根っこがきれいだと良く見えます。

二、音色に大きく影響する。尺八の内部は上が広く下に行くに従って狭くなっています。根っこの部分が1番狭く、出口でまた少し広くなっております。いわゆる逆円錐型でリコーダーなどと似ています。竹の根っこは穴がほとんど無いために穴を掘る時に、製作者の思うように加工し易かったのではないかと思います。この部分は音色に大きく関係していると言われています。

三、虚無僧が木刀代わりに武器として使える。昔の尺八は延べ竹と言って一本の竹でした。虚無僧が武器として使う場合は丈夫でしかも根っこが効果的だったのではないでしょうか。現代の尺八は中央で二つに分離できるようになっています。これはピッチを合わせるためと、加工をしやすくするためと聞いています。これで相手を殴ろうものなら中ほどから折れてしまい、とても武器としては使えません。

 根っこが絶対必要かと言われれば古管(古い尺八)の中には根っこを使ってないものもありますのでなんとも言いがたい。歴史的には三、二、一の順かな。現代では一、二の順だと思います。

 古い尺八と現代の尺八の最大の違いは竹の内部の処理の違いです。このことについてはいずれ触れようと思います。